また、空間が歪んだ。
　今度はロイズだけでなく、他の二人もすぐに気付いた。なぜならその歪みは、扉の形を取って現れたからだった。
フィフィリアンヌが作った、この半球体と石造りの家を繋ぐための扉に似ているが、それとは雰囲気が違っている。
雰囲気が希薄、というか、影がない。なので、一目見ただけで、この扉が現実のものではないと三人とも察した。
その幻の扉は、半球体の天井付近に浮いていた。三人が不安混じりに見上げていると、扉が音もなく開いた。
　そこから、大柄な男が落下してきた。共和国軍の軍服に身を固めた男は、体格の割に身軽な動きで着地した。
軍帽の下から、威圧的な光を宿した目が上がる。ロイズは父親の格好に驚いてしまい、息まで飲んでしまった。
その次に、戸惑った。捨てたはずなのに、なぜ来たのだろう。そしてなぜ、昔の軍服など着込んでいるのだろうか。
ダニエルの軍服姿に少し怯えたのか、リリはヴィクトリアの影に隠れた。ヴィクトリアは、怪訝な目で彼を見ている。

「三人とも、無事か」

　ダニエルに尋ねられたが、リリは首を縮めてしまい、ロイズは身動いだ。なので、ヴィクトリアが答えた。

「そうね。無事と言えば無事なのだわ。けれど、状況はあまり良くないんじゃなくって？」

「正直に報告しよう、我々ヴァトラス小隊は極めて不利だ。魔導兵器三人衆はラオフー以外の二体は撃破したが、連合軍が控えている。リチャードとレオが無茶苦茶な攻撃を仕掛けて艦隊を粉砕し、軍勢を減らしたが、全滅したようには思えない。だから、一刻も早く戦場から離脱し、速やかにゼレイブに帰還しなければならない」

　ダニエルの淡々としながらも強い言葉に、リリが顔を上げた。

「ラオフー以外ってことは、ルージュ姉ちゃんと、フリューゲルが？」

「フリューゲルはラミアンによって倒され、中枢機関である魔導鉱石の破損を確認した。ルージュもブラッドによって倒され、海中で爆砕した。ラオフーはヴェイパーと交戦したが、ラオフーが退いたので実質的には勝利だ」

　それを聞いて、リリは青ざめてよろめいた。

「フリューゲルが、死んじゃったの？　ラミアン小父さんが、フリューゲルを殺しちゃったの？」

「そうだ」

　ダニエルが頷くと、リリはぺたっと座り込んでしまった。大きく見開かれた両目から、ぼろぼろと涙が落ちた。

「そんな、どうして…なんで…？」

「この子、あの鳥とお友達だったのだわ」

　ヴィクトリアの説明を受け、ダニエルは顔を伏せた。

「そうか。だが、それが戦いというものだ。犠牲なくして、勝利は有り得ない。どうか、解ってくれ」

「ひどいよ、ひどいよ、そんなのってないよ！」

　うわあ、とリリは大声を上げて泣き出した。その様にダニエルは胸が痛んだが、続けた。

「仕方なかった、というのは容易い。だが、あれは必要な犠牲だったのだ。リリとフリューゲルは友人関係であったかもしれないが、私達からすればフリューゲルは魔導兵器三人衆の一員でしかなく、またゼレイブを破壊し、フィリオラを攻撃し負傷させた害悪でしかなかったのだ。ルージュとラオフーも、同様だ。だから、その手中からお前達を助け出すためには、倒さなければならない相手だったのだ」

「それはそうよね。当たり前のことだわ」

　魔導兵器三人衆にあまり思い入れのなかったヴィクトリアは、反応が薄かった。だが、ロイズは違っていた。
わあわあと泣いているリリが不憫でたまらず、リリを泣かせた父親が腹立たしく、言い返さずにいられなかった。

「でも、そんなこと、今言わなくたっていいじゃないか！」

「ならば、いつ言えと言うのだ、ロイズ」

　ダニエルに反論され、ロイズは気圧されながらも続けた。

「今じゃなくたっていいじゃないか、それに言い方ってのがあるだろうが！」

「お前達はこの戦いの当事者だ。当事者に現状を報告しないわけにはいくまい」

「だからって！」

　ロイズが喚くと、ダニエルはロイズに近付いてきた。

「あまり言い争っている時間はない。ロイズ、脱出を手伝え」

「こんな時でもそれかよ！」

　ロイズは、父親を睨んだ。

「もうちょっと、言い方とか、言うこととか、ないのかよ！」

　少しでもいい。心配してほしかった。捨てられたと知った時点で切り捨てたはずの父親への思いが、溢れ出した。
嫌いだけど、嫌いじゃない。母親が死ぬ前の、厳しくも優しかったダニエルを知っているから嫌いになりきれない。
愛されないと解っているのに、また愛してほしいと願ってしまう。ほんの少しだけでもいいから、気に掛けてほしい。
だが、言えなかった。言ってしまえば、これまで固めてきた父親への意地が崩れてしまいそうだから、飲み込んだ。
けれど、飲み下しきれずに喉が詰まり、視界が歪んだ。泣きたくない、泣いちゃダメだ、と強く思っても無理だった。
足元にぼたぼたと涙が落ちて、ロイズはしゃくり上げた。悔しくて情けなくてたまらず、嗚咽すら漏らしてしまった。

「ロイズ」

　ダニエルの軍靴のつま先が、ロイズの視界に入ってきた。ロイズは後退ろうとしたが、大きな手が肩を掴んだ。

「はなせ」

　ロイズは辛うじて言葉を絞り出したが、その手を振り解けなかった。ダニエルは、息子の頭に手を乗せた。

「簡単に言えるぐらいなら、誰も苦労はしない」

　その口調は強張っていたが、威圧感はなく、逆に弱さすらあった。ロイズは呆気に取られながら、目を上げた。
ダニエルは、なんとも形容しがたい表情を滲ませていた。笑っているようでもあったが、怒っているようでもある。

「私は、その辺りのことが特に不器用でな」

　ダニエルは気恥ずかしげに、ロイズから視線を外している。

「すまない。言おうとは思うんだが、どうも、その」

「へ」

　ロイズは口を半開きにし、空気の抜けるような声を出した。この人が困った姿を見るのは、初めてかもしれない。
しかも、やたらとやりづらそうだ。見ている方がじれったくなるぐらいに言葉を選んでいて、正視しようともしない。

「四十過ぎの男が、息子相手に何を照れてんのよ！」

　二人の頭上から、快活な女性の声が響いた。ロイズが見上げるよりも先に、ダニエルの背に女性が被さった。

「あ、いや、別にそういうわけでは」

　ダニエルはのし掛かられているせいか、前のめりになって困り果てている。彼女は、彼の肩で頬杖を付く。

「ま、そういうわけだから。素直になるまで、ちょっと時間が掛かるから辛抱してやってね、ロイズ」

「かっ」

　ロイズはあまりのことに信じられず、言葉を噛んでしまった。女性、フローレンスは半透明で手を息子に触れた。

「ロイズ。元気してた？」

「かあさん」

　ロイズは母親に触れられている頬に触れたが、何も感じられなかった。かすかに冷えた空気があるだけだった。
手と同じく、フローレンスの姿は半透明だった。生前と同じく澄んだ青い瞳は潤んでいて、涙すら浮かべていた。

「ごめんね」

「母さんは、ずっとブリガドーンにいたの？」

「死んでから、気付いたらここにいたのよ。たぶん、ブリガドーンの魔力に引き寄せられちゃったんだと思う。あたしはずっとロイズの近くにいたんだけど、気付いていた？」

「じゃあ、あれは、母さん、だったの？」

　確かに、気配を感じたことはあった。ロイズが途切れ途切れに言うと、フローレンスは心底嬉しそうに笑んだ。

「そっか。解ってくれたんだ」

「フローレンスのこともそうだが、私もお前と話がしたい。そのためにはまず、ここから脱出することが先決だ」

　それに、とダニエルは軍帽の鍔を下げて表情を隠した。

「戦いを終えてからでないと、話したいことがまとまりそうにないからな」

「軍隊馬鹿だからねぇ、ダニーは」

　可笑しげに声を転がすフローレンスに、ダニエルは言い返せずに俯いている。ロイズはますます、戸惑った。
けれど、なんとなくほっとした。母親にいじられて父親が弱っている姿を見ていると、心中に安堵感が広がった。
前の父さんも、こんな感じだった。父さんは父さんのままだったんだ。ただ、それを二人とも見失っていたのだ。
フローレンスが抜け落ちた日々がとても寂しくて悲しかったのは、ロイズだけではない。ダニエルも同じなのだ。
だが、ダニエルは弱った姿を見せようとしなかった。他でもない、弱みを見せられるフローレンスが死んだからだ。
しかし、今はそのフローレンスがいる。大好きな母さんが、大事な母さんが、明るくて元気で良く笑う、母親が。
涙の量が、一気に増えた。ロイズはだくだくと涙を流しながら、半透明の母親が浮かんでいる方へ歩み寄った。

「かあさん」

「ロイズ」

　優しい声で名を呼ばれ、ロイズはその場に崩れ落ちた。フローレンスは、泣きじゃくる息子の傍に浮かんだ。

「本当にごめんね、ロイズ。いけないのはあたしなの。あたしが弱いから、あたしがあたしのことを信じられなくなったのが悪いのよ。ダニーは悪くないの。責めるなら、あたしを責めて」

「どうして死んじゃったんだよ、どうして、ねえ！」

　ロイズが喚くと、フローレンスは顔を歪ませて息子を抱き締めた。だが、その腕は息子の体を擦り抜けた。

「落ち着いたら、ダニーから話してもらって。あたしは、もうロイズとは話せないから」

「なんでそんなことを言うの、母さん！　ヴェイパーもいるんだよ、だから皆で一緒に帰ろうよ！」

　ロイズはフローレンスを見上げ、迫った。フローレンスは目を閉じて涙を零したが、水滴は床を濡らさなかった。

「うん。知っている。でも、あたしはブリガドーンがあったからなんとか魂を保てていただけなのよ。本当なら、死んだ時に魂も全部消えちゃうはずだったんだけど、ロイズとダニーにもう一度だけ会いたいっていう未練があったから、ブリガドーンの膨大な魔力があたしの魂を一時的に増強しているだけなの。だから、ブリガドーンから出たらあたしは消えるの。今度こそ、本当に死ぬの。だけどね」

　フローレンスは両手を伸ばし、ロイズの小さな手を優しく包み込んだ。

「傍にいるから。ロイズが生きている限り、あたしの血はロイズの中に流れている。ダニーが生きている限り、あたしという人間がこの世に生きていた記憶は残される。ヴェイパーが生きている限り、あたしがあたしらしく生きた痕跡は決して消えない。だから、ほらね、寂しくないでしょ？」

「…寂しいよ」

　ロイズはフローレンスの胸に縋ろうとしたが、母親の胸元には大きな傷口が開いていた。致命傷の傷だった。
傷口は生々しく赤黒く、戦闘服にこびり付いた血も湿り気を帯びている。フローレンスは、胸の傷にそっと触れた。

「あたしだって、寂しいよ。でも、ダニーがいるじゃない。ヴェイパーもいるじゃない。だから、大丈夫だって」

「ああ」

　ダニエルの手が、ロイズの頭を押さえた。

「一緒に帰るぞ、ロイズ。ゼレイブで、全部最初からやり直そう」

「でも、僕のこと」

　捨てるんじゃ、と言おうとしたが言えずに、ロイズは口を噤んだ。ダニエルはその続きを察し、苦笑いする。

「あれは私が愚かだったのだ。だから、お前を捨てやしない。約束しよう、ロイズ。お前は、私の子のままでいろ」

「だけど、任務は」

　ロイズが困惑すると、フローレンスはダニエルへ向けて目配せした。

「もう、そんなもんはどうだっていいのよ。ね、ダニー？」

「ああ」

　ダニエルは、自嘲するような表情を浮かべていた。

「戦うことは、生きることとは違う。これまで私は、それらを同一視していた。だが、それらが全くの別物であるとようやく理解した。生きていくためには戦わなければならないが、戦うために生きなければならないはずがない。だからもう、誰とも戦わなくていい。無論、連合軍ともだ。戦おうとするから敵が出来てしまうのだから、戦おうとしなければいいのだ。なぜ、今の今までそんなことに気付けなかったのか不思議なくらいだ。お前達を守りたいがために戦い始めたはずが、いつのまにかお前達を犠牲にして戦うようになってしまった。どこでどう間違えたのか、もう解らなくなってしまった。だが、まだ間に合う。私は、過ちを正さねばならない」

　噛み締めるように言葉を連ねていたダニエルは、ロイズに向き直った。

「今日この日をもって、異能部隊の全任務を解除することとする。同時に、全指揮権をダニエル・ファイガー現隊長よりロイズ・ファイガー次隊長へと譲渡する！」

　その言葉に、ロイズはぎょっとした。

「えっ、なんで僕なの！？」

「お前以外に誰がいるというんだ、ロイズ」

　ダニエルは不器用ながらも、ロイズに微笑みかけた。ロイズは父親の笑顔に妙な照れを感じてしまい、俯く。

「だけど」

「さあ、命令を」

　ダニエルから命令を乞われたロイズは、困りながらも命令を下した。

「えっと、それじゃ、空間を曲げて突破するから、隊長は、じゃなくって、ええと」

「父さんでいい」

　ダニエルは息子から目線を外しつつ、呟いた。ロイズはまたもや照れながらも、頷いた。

「父さんは、僕が曲げた空間を念動力で突き破って。リリとヴィクトリアは、僕に魔力を貸して。中の空間と外の空間には隙間があって、その隙間も含めた空間を全部曲げなくちゃ外へは繋がらないんだ。ヴェイパーがいないから、ちゃんと出来るかどうかは解らないけど、でも、やってみせるよ。リリも、一緒に帰ろう」

　ロイズは、リリへと手を差し伸べた。リリは泣き伏せていたが、そろりと顔を上げた。

「だけど、帰ったら、怒られちゃう。だって、私は」

「それぐらい、どうってことないって。フィオちゃんは、あなたのお母さんは優しいんだから。リリちゃんがどんなことをしたとしても、話せばきっと解ってくれるわ。リリちゃんとフィオちゃんは家族なんだから、困った時には頼ってもいいし泣き付いたっていいの。もちろん、レオさん、あなたのお父さんにも。あたしはダニーにもロイズにもヴェイパーにも頼ろうとしなかったから、自分でなんとかしようとしたけど出来なかったから、こんなことになっちゃったのよ。それに、怒るってことは、フィオちゃんはそれだけリリちゃんのことが心配なのよ。だから、ね？」

　フローレンスはリリに近寄り、頷いた。リリは涙をぐいぐいと拭っていたが、立ち上がった。

「…うん」

「あなたみたいな子供に、この私の魔力を貸すのは癪に障るけれど、私ではこの空間を突破出来ないわ。だから、今回だけは許してあげる。ありがたく思いなさい。そして敬いなさい」

「はいはい」

　ロイズはやたらに嬉しくなっていたので、ヴィクトリアの高慢な言い回しも気にならなかった。

「事が終わったら、十倍どころか一万倍にして返すがいいのだわ」

　ヴィクトリアはロイズの傍にやってくると、ロイズの右手を取った。

「力を操る利き手はこっちかしら？」

「ううん、両方。僕、まだまだ下手だから。だから、リリは左側をお願い」

　ロイズが言うと、リリはフローレンスに寄り添われながらやってきた。リリの手が、ロイズの左手を握る。

「これでいい、ロイ？」

「うん。じゃ、行くよ。父さんもいい？　母さんは」

　ロイズがフローレンスを見上げると、フローレンスはするりと滑ってダニエルの傍に添った。

「あたしは、ロイズとダニーの思念を繋げてあげるわ。幽霊でも、あたしの能力は健在なんだから。精神感応で連絡し合った方が、口頭で伝え合うよりも余程確実で安全よ。こういう時に役に立たなくてどうするってのよ」

「ありがとう、父さん、母さん！」

　ロイズは二人に向けて、笑った。両親は顔を見合わせてから、笑みを返す。それだけで、胸の奥が熱くなった。
上手く言葉に出来ないが、とにかく嬉しい。心地良い。失ったとばかり思っていたものは、ちゃんとあったのだ。
それも、あるべき場所に。家族で一緒に帰ろう。ゼレイブに戻って、家族四人での日々を最初からやり直そう。
そこにフローレンスはいないが、フローレンスが生きた証はちゃんとある。他でもない、ロイズの体の中にある。
だから、寂しくはない。悲しさはまだ残っているが、けれど、もう大丈夫。ロイズは力を高めて、真正面を睨んだ。

「空間湾曲！」

　ロイズの声と、ダニエルの声が重なった。ロイズが曲げた空間の中心に、先を尖らせた念動力がねじ込まれる。
円錐形の螺旋状に抉られた空間はぎちぎちと軋み、空間同士の接点が引き延ばされていき、レンガが崩れる。
巨大なレンズを中心から曲げたように見える空間の歪みは、ロイズの力とダニエルの力で徐々に拡張されていく。
どこにどう力を配分すればいいか、どうすれば力が引き出せるかは、父と子は言葉を交わさずとも通じ合った。
二人を繋いでいる母親の魂からは、二人に向けられた深い愛情が絶え間なく流れ込んで、自信を強めてくれた。
また、ロイズの両手を掴んでいる二人の少女の手も温かかった。ロイズが強く握ると、二人もまた握り返してきた。
　皆で、帰ろう。




　その頃。ブリガドーンの外は、膠着状態にあった。
　リチャードがかなり大規模な攻撃を行ったため、連合軍の攻撃はぱったりと止み、恐ろしいほど静かだった。
それが不気味でもあったが、戦闘が一段落してくれるに越したことはない。だが、戦い続けている者達もいる。
ギルディオスとグレイスは未だに斬り結び続けていて、どちらも体力が底なしなので決着が付かないようだった。
グレイスは呪術専門かと思いきや、剣術も充分に出来るらしく、剣術に長けたギルディオスを押すこともあった。
　リチャードは弟から思い切り殴られてしまったせいで痛む頬をさすっていたが、口中の鉄錆の味に気付いた。
力一杯殴られたので、口の中が歯で切れている。あーあ、と思いながらリチャードは恨みがましく弟を睨んだ。

「ねえ、レオ」

　リチャードは、ばつが悪そうにしている弟に声を掛けた。

「とりあえず殴るのはやめてくれる？」

「あー、すまん。ついな、つい」

　頭に昇った血が下がったレオナルドは、苦笑いした。リチャードは、血混じりの唾を地面に吐き捨てた。

「子供の頃から、ちっとも進歩しないねぇ。いい加減に落ち着こうよ、いい歳なんだから」

「ん？」

　ふと、レオナルドは上空を見上げた。リチャードも、それに釣られて見上げる。

「音…？」

　聞き慣れない駆動音が、風に乗って聞こえてきた。それは、うっすらと煙が散る海峡の向こうから近付いてきた。
リチャードは目を凝らしたが、あまり視力が良くないので見えなかった。だが、レオナルドには見えたらしかった。
　レオナルドは目を動かして、本島と大陸を隔てる海峡の上を見回した。本島側から、こちらに向かうものがある。
無差別攻撃の果てに灰と化した地上を見下しながら、二枚の翼を重ねた飛行機械が、次第に距離を狭めてくる。
それは複葉機だった。その数は、十や二十ではない。空を埋め尽くさんばかりの数の、人工の鳥が飛んでいる。

「まずい、複葉機だ！」

　レオナルドが声を上げると、リチャードは顔をしかめた。

「今まで様子見をしていた、連合軍の主力部隊ってことかな。ということは、さっきまでのド派手な攻撃は僕達を消耗させるための犠牲であると同時に囮であり、僕達が静かになったから攻撃を仕掛けに来たってわけか」

　リチャードは杖をぐるりと回すと、かっ、と足元に突き立てた。

「ああ、嫌だねぇ。卑怯な作戦だよ。人のことは言えないけどさ」

　だが、リチャードの周囲の空気は落ち着いていた。魔力を解放した時に発する軽い熱や流動が、起きなかった。

「どうした、兄貴」

　レオナルドが訝ると、リチャードは眉根を曲げた。

「ん、あれ？」

「まさか、さっきのアレで魔力を使い果たしたんじゃないだろうな？」

「僕はレオとは違うよ、そんなヘマはしない。だとしたら、たぶん」

　リチャードの背筋に、冷たい汗が流れた。海中には、ブリガドーンから落下した巨石が大量に沈んでいる。

「あれのせいだ。ブリガドーンを壊したせいで、その中の魔力が解放されちゃったんだ。そのせいで、辺りの魔力が乱れに乱れているんだろう。だから、魔法を成そうにも、魔法を成すために出した魔力がブリガドーンの魔力に掻き乱されちゃって…」

「御託はいい、まずは敵を！」

　レオナルドは複葉機の群れを睨んだが、炎は複葉機の遥か手前で爆ぜてしまい、火の粉も届かなかった。

「ダメだ、遠すぎる！　届きゃしねぇ！」

「ちょっと不利になっちゃったかな？」

　リチャードは背筋を這い上がる不安に、奥歯を噛んだ。魔法が使えない以上、突っ立っていても意味はない。
だが、逃げようにも逃げる場所がない。もうちょっと抑えておけばよかったな、とリチャードは内心で苦笑した。
レオナルドはブリガドーンの球体を見上げ、目を見開いた。レンガ造りの表面が、螺旋状に湾曲し始めている。

「あれは…ロイズか？」

「だとしたら、まずいねぇ。今、あの中から脱したら格好の的だ」

　リチャードは、空間ごと曲げられていく球体の表面を見上げた。その歪みは、内側から押し上げられている。
恐らく、それはダニエルの力だろう。魔力の上限を解除した状態のダニエルなら、空間さえも動かせるだろう。
それほど、彼の念動力は強力だ。敵が先か、ダニエルが空間を貫くのが先か。二人は、息を詰めて見守った。
　複葉機の影が、海に連なる。動力機関の重々しく鈍い駆動音と、回転翼が風を切り裂く音が次第に迫ってくる。
複葉機がブリガドーンの球体のすぐ後ろに到達した瞬間、レンガにヒビが走り、円錐形の螺旋状に貫かれた。
歪められた空間を突き破った主は、軍服を着込んだ男だった。その背後には、少女達と手を繋げた少年がいる。
　ダニエル。ロイズ。リリ。ヴィクトリア。不安げながらも元気そうな娘の姿に歓喜し、レオナルドは歓声を上げた。
ダニエルの背後に薄い影が見えたような気がしたが、失せた。それが一体誰なのかを、確認する間もなかった。

「援護出来るか！？」

　レオナルドは娘の無事を確認出来た喜びを押さえ、力を放った。だが、炎は複葉機の翼を掠めただけだった。
ブリガドーンの球体を貫いた格好のまま、ダニエルは子供達を連れてこちらへ向かってくる。そして、複葉機も。
複葉機が地上に差し掛かると、操縦士達が何かを投げた。先端に火の付いた丸い物体が、いくつも落下する。
程なくして、爆発が起きた。レオナルドは間近で起きた爆風で耳を痛めながらも、複葉機の数機に視線を据えた。
直後、視線を向けられた複葉機から炎に走り、爆砕した。だが、敵機の数は減らず、投下される爆弾も減らない。
障壁で防ごうにも、魔法が使えなければ防げない。リチャードは歯痒く思いながら、ダニエルの行く末を見やった。
　ダニエルは海岸沿いに降下すると、子供達を背にした。それに気付いた一機の複葉機が、旋回し、戻ってきた。
ダニエルは複葉機の翼を狙おうとしたが、目眩に襲われた。念動力を最大出力で放ち、空間を破ったせいか。
次の瞬間には複葉機の一機が真上に滑り込み、操縦士が無防備な子供達を狙い、球体の爆薬を投げ落とした。

「ぐっ！」

　頭が割れそうなほどの頭痛を堪え、ダニエルは念動力を操った。子供達を、息子を守るために爆弾を止めた。
びたっと空中で停止した爆弾を複葉機に向けて投げ飛ばし、複葉機の胴体部分にめり込ませた直後に炸裂した。
振り返ると、ロイズは怯えてしまっていた。ダニエルは息子を安心させるために笑い返したため、気付き損ねた。
別の機体が、次なる爆弾を投げ落としていたことに。駆動音に気付いて振り向いた瞬間、激しい閃光が迸った。
　爆発の中から弾丸のように飛び出してきた瓦礫が、腹と胸を容易く貫いた。骨が砕け、内蔵が引き千切られる。
念動力を出そうとして伸ばした右腕も、瓦礫の破片に折られた。背中から瓦礫に叩き付けられ、喉が詰まった。
咳き込んだ拍子に出てきた赤黒い飛沫が、軍服の胸元を汚した。大尉の階級章が、鉄臭いものに塗り潰される。

「…無事か」

　上手く回らない舌を動かし、ダニエルは息子の名を呼んだ。

「ロイズ」

　見ると、息子は哀れに思えるほど震えていた。がくがくと膝を笑わせながら、ダニエルの元へと近付いてきた。

「とうさん」

「無事だな。なら、いいんだ」

　ダニエルは折れていない方の左手で、ロイズの頬に触れた。ロイズは、その血に汚れた手を取る。

「父さん…」

「泣くな、ロイズ。今日からお前は、異能部隊の隊長だろうが。しっかりしないか」

　ダニエルは、次第に霞む視界の中にいる息子を抱き寄せた。久々に抱いた息子の体は、随分と成長していた。
息子の頭に軍帽を被せてやってから、強く抱き締めようとしたが腕に力が入らない。足元の水溜まりが、広がる。

「やだよ、僕を一人にしないでよ！　死なないで、死んじゃ嫌だ、嫌だよお！　僕、父さんが大好きなのに！」

　ロイズの悲痛な叫びに、ダニエルは息子の頭を抱えて肩を震わせた。

「今度は、ちゃんと釣りを」

　教えてやろう、と弱々しく掠れた声がロイズの耳元で聞こえた。抱き締めてくれていた腕が、音もなく滑り落ちた。
どくどくと高鳴っていた父親の心臓が静まり、優しい表情を浮かべていた目が虚ろになり、大きな体が揺らいだ。
ロイズはその体を受け止めようとしたが、出来なかった。体の下から出ると、ダニエルは俯せに倒れ伏してきた。

「ねえ、父さん、父さん」

　ロイズが必死に肩を揺さぶっても、ダニエルは起き上がらなかった。それどころか、父親は冷たくなっていく。

「とうさああああん！」

　ロイズと物言わぬダニエルを中心に、空間が大きく歪んだ。戦場上空がねじ曲げられると、複葉機も曲がった。
紙切れのように粉々に砕かれた機体が、ばらばらと落下する。ロイズの泣き声が激しくなると、更に曲がった。
　父さん。父さん。父さん。ロイズが父親の返事を乞うて連呼するたびに、複葉機が割られ、空中で爆砕していく。
激しく高ぶった感情に合わせ、少年の異能力が暴走した結果だった。気付いた頃には、複葉機は全滅していた。
だが、ロイズはそれに全く気付かないまま、必死にダニエルを呼び戻そうとしていた。やっと仲直り出来たのに。
しかし、ダニエルは何も言わなかった。息子を抱き締めていた腕を投げ出し、焦点を失った目で地面を見ていた。
ダニエルの生が完全に失われたことを理解したロイズは、よろよろと立ち上がり、歯を食い縛って右手を挙げた。
　立派に戦い抜いた戦士へ、敬礼を捧げた。




　かつて、異能の男にとって、戦うことと生きることは同意義であった。
　だが、愛する女と添い、その間に子を授かったことで、それらが別物であると知る。
　不器用に戦い続けた末にようやく答えを見つけ出した彼は、子と共に生きることを選び、そして。

　我が子のために戦い、散ったのである。





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07 7/2