ドラゴンは滅びない




大決戦 後



 目覚めたら、夜になっていた。
 思い出すのも面倒なほどにとても古い、脳髄の底に僅かばかりこびり付いている記憶だ。忘れたはずの過去だ。
背中に感じるのは枯れ草の乾いた感触であり、鼻を掠めるのは家畜の生臭い匂い。そして、星空が見えていた。
 何が楽しくて、他人の一族を恨まなければならないのだ。先祖はどうか知らないが、自分には縁もゆかりもない。
そんなことをして、何になる。昔からの決め事だとしても、守り続けたところでいいことがあるようには思えない。
この考えを口にするたびに、父親からは殴られて食事を抜かれる。決まり切った虐げでも、辛いものは辛かった。
昼間は大人以上に働かされて、他の兄弟達が動かないから、その分自分だけが朝早くから夜遅くまで働いた。
家は大きいし家族は多いので、金はあるはずなのだが、ちょくちょく街に行かされて日雇いの仕事に就かされた。
きつい仕事の合間に大量に蔵書してある魔導書を読もうとすると、他の兄弟に張り倒され、一文字も読めない。

「つまんねぇ」

 自分なら、上手く出来る。年の離れた兄や姉達が魔法や呪術を操る様は、傍目に見ても下手でなっていない。
そのたびに父親から怒鳴られて叩かれても、彼らの魔法は一向に上達しない。理由は簡単、魔力が低いからだ。
その点、自分は違う。幼い頃に持たされた魔力測定器も、測定を始めた途端に壊れるほどに魔力量は多かった。
だが、父親や兄弟はそれを認めようとしなかった。壊れる時期だったのだと言い張って、取り合ってくれなかった。
その時は幼かったので父親達の言い分を素直に信じたが、後になって嘘だと解ったので、ひどく憤慨したものだ。
魔力測定器は、そう簡単に壊れるものではない。それを壊すほどの魔力量を秘めた自分を、疎ましく思ったのだ。
魔法を少しでも覚えてしまえば取って代わられてしまう、と父親達は恐れを成したからこそ、隠してしまったのだ。
きっと、そうに違いない。だが、もう遅い。古本屋の整理の仕事を任された時に、古い魔導書を一冊くすねてきた。
 頭の下に入れて枕代わりにしていた本を出し、表紙を払った。二重の円に囲まれた六芒星が、描かれている。
家畜小屋の中では明かりが少ないが、暗くても充分読める。本をまるで読めないせいか、視力だけは良かった。
逆さにしてある空の飼い葉桶に腰掛け、ページをめくった。魔法文字と帝国の言語は一切読めないが、解る。
溢れんばかりの魔力が、本能的に告げている。どの魔法文字がどんな作用をもたらすのか、自然と頭に入る。
不思議な感覚であるが、心地良かった。試しに簡単な魔法でも使ってみようと、ごく短い呪文を指でなぞった。
指先に熱が生じ、手のひら全体も熱を帯びる。体に漲る魔力が手のひらから迫り出し、光の固まりが産まれた。
 その輝きは暖かく、そして眩しく、見入ってしまった。他の兄弟達の生み出す光は、これよりも遥かに弱かった。
勝った。勝ったのだ。自分はこの家で一番なのだ。その嬉しさに酔ってしまい、魔力の制御が崩れてしまった。
温かな光を放っていた魔力の固まりは突然膨らみ、火の傍のような熱を発した。慌てて、家畜小屋の外に放る。
地面に接した途端、魔力の固まりは爆ぜた。目も眩むような閃光と熱い爆風が起き、地面は丸く抉れてしまった。
爆音がしたためか、家畜小屋から離れた母屋の屋敷が騒がしくなった。鉱石ランプの明かりが、近付いてくる。
とりあえず逃げ出さなくては、と家畜小屋から飛び出そうとしたが、突然目の前に人影が現れて立ち塞がった。

「グレイス!」

 それは、次兄だった。灰色のローブに身を包んだ青年は、グレイスの襟首を掴み上げる。

「お前は、また何をしでかしたんだ!」

「何もしやしねぇよ」

 グレイスは次兄の手を振り払うと、彼の手が触れた部分を手の甲で拭った。

「あんたらこそ、寝てたらどうだ。ただでさえ魔法が下手なんだから、寝不足だと余計に精度が下がるだろ?」

「お兄様」

 今度は、家畜小屋の中に人影が現れた。鉱石ランプを手にして出てきたのは、三番目の姉だった。

「これ、何かしらねぇ?」

 三番目の姉の手には、グレイスが盗んだ魔導書があった。グレイスが奪い返すよりも先に、次兄に遮られた。
といっても、手ではなく、魔法による障壁に阻まれた。障壁に強かに額を打ち付け、グレイスはしゃがみ込んだ。

「いってぇ!」

「お父様に報告しましょうか?」

 三番目の姉は濃い灰色のローブの裾を引き摺りながら、次兄に寄り添った。次兄は、妹の肩に手を回す。

「いや、いい。憂さ晴らしをしたかったところだ」

「あら、奇遇ね。私もよ」

 くすくすと嫌らしい笑みを零しながら、三番目の姉は魔法を唱えて魔導書を燃やし、一瞬で灰にしてしまった。

「王国の血が流れているだけでも汚らしいのに、こんな下らない本を読むなんて、ますます汚らしいわ」

「その本の著者はヴァトラス家の魔導師の弟子だ。元より、我々が読むに値しない、品のない魔法だ」

 次兄の大きな手がグレイスの顎を掴み、持ち上げた。次兄の灰色の瞳と、グレイスの灰色の瞳が向き合う。

「罰を与えよう」

「腕にする? 足にする? それとも首?」

 きゃははははははは、と甲高い笑い声を上げた三番目の姉が、グレイスの細い腕を捻り上げている。

「けれど、首をへし折ってしまうと死んでしまうわ。それは困るわね、いいおもちゃがなくなってしまうもの」

「だが、死んだら死んだでそれでいいじゃないか。さて、どうしてやろう」

 鉱石ランプを受けてぎらついた二人の灰色の瞳が、グレイスを睨め回している。グレイスは抵抗し、身を捩る。

「その汚い手を離せ、阿婆擦れが! 手当たり次第に兄弟とまぐわいやがって、お前らは魔物以下だよ!」

「出来損ないの穀潰しが、減らず口を叩くんじゃない!」

 次兄の拳に頬を殴られると、舌に鉄錆の味が広がった。背後からはまた、狂気じみた笑い声が上がっている。
屋敷から出てきた他の兄弟達もいたが誰も二人を止めることはなく、にやにやしながら少年への暴行を見ていた。
それは当然だ。兄弟の中で唯一父親に反抗的なグレイスは、父親に従順な彼らにとっては規律を乱す存在だ。
この屋敷の中で、父親は絶対だ。古より続く呪術師の血を引き、類い希なる呪術の才能を持った男だからだ。
だが、昨今の父親はその才能に溺れ、本来の使命であるヴァトラス家への呪いを成就させようとしていなかった。
呪いを成就させると帝国の皇族との繋がりが切れてしまうので、援助も途切れ、呪術の仕事も減るからだった。
そして、元から色欲が強かった父親は手当たり次第に女に手を付けて子供を産ませ、後継者を無駄に増やした。
 グレイスも、そのうちの一人だった。グレイスは二番目の妻の三男だったが、父親はもう他の妻を娶っていた。
母である二番目の妻は見た目こそ美しかったが体が弱かったせいもあり、すぐに父親から飽きられたのである。
他の兄弟達がこぞって父親の機嫌を取る中、グレイスは父親の何もかもが気に入らなかったので、反発していた。
そのうち、父親はグレイスに目も向けなくなり、他の兄弟達はグレイスを兄弟ではなく浮浪児のように扱ってきた。
それが面白くないと思う時もないではなかったが、たまに寂しいと思う時もあったが、振り切って反発を続けた。
気に食わない相手に従う義理がどこにあるのだ。それが父親であろうとも、種を植え付けた人間だけに過ぎない。
そんな情けないことをするぐらいだったら、殴られた方が余程マシだ。父親の人形でいるよりも、人間でいたい。
 みし、と腕の内側から嫌な音がして激しい痛みが背筋を貫いた。思わず倒れ込むと、三番目の姉が笑った。

「折れたわ、折れちゃったわ! ああ可笑しい!」

「やっかましいんだよ、不細工が」

 冷たい地面に腫れた頬を押し付けたグレイスが吐き捨てると、腹部に硬い靴先がめり込んだ。

「口答えをするな!」

 蹴られた拍子に転がって、折れた方の腕が体の下に入ってしまった。軽い体重が折れた部分に掛かり、軋む。
気絶するのが先か、彼らが飽きるのが先か。グレイスは痛みと苛立ちで朦朧とした頭で、ぼんやりと考えていた。
 これは、いつの記憶だろう。似たような記憶はいくらでもあるので、何歳頃のものだったか自分でもよく解らない。
自分自身の体格と兄弟達の顔触れから考えると、十歳を過ぎた辺りか。その頃は、グレイスもまだ大人しかった。
ルー一族に掛けられたルーロンの呪いも漠然としか知らなかったので、反抗も温く、粋がっていただけだった。
 子供の頃は、年相応に幼かった。


 次の記憶は、父親を殺した時の記憶だった。
 書斎の床には年老いて干涸らびた父親が転がり、見た目だけは豪奢な魔導服に身を包んで縮こまっている。
金糸で派手な刺繍の施された袖から出ている手首は骨と皮だけでしかなく、眼窩は落ち窪み、老人斑が出ている。
これで、延命の呪いを掛けたつもりなのか。死体も同然だ。こんな格好でしか生き長らえられないとは、笑えてくる。
倒れている父親は、グレイスに椅子ごと蹴り倒されて転がされた際に肩を痛めたらしく、しきりに痛がっていた。
だが、どんな言葉もグレイスの耳には届かない。こんなものに支配されていたと思うと、可笑しくて仕方ないからだ。
腹の底からげらげら笑いながら、グレイスは床に転がる父親に近付いた。父親は、枯れ枝のような手を伸ばす。

「グレイス」

「反撃しねぇの?」

 グレイスはその手をつま先で蹴り上げると、度の入っていない丸メガネの下で目を細めた。

「するならしやがれ。つっても、オレに勝てるわけなんてねぇけどな?」

「他の、者達は」

 黄ばんで淀んだ目がグレイスを見上げていたが、逸れた。ああ、とグレイスは腕を組む。

「ここに来るまでの間に、あんたがはべらしていた若手はみぃーんな殺してきたぜ。どいつもこいつも弱っちくって、歯応えもありゃしねぇ。今度は、もっと強い奴でも用意しておくんだな。ま、次なんてねぇけどな!」

 堪えきれず、グレイスはまた笑い出した。

「ああ楽しい楽しい! あんたを殺せば未だにあんたに頼り切っている兄貴共はガッタガタだ、あいつらは自分の頭じゃ何も考えられねぇ能無しの木偶の坊だからな、オレが手を出さなくても勝手におっ死んでくれるぜ!」

「そんな、ことは」

「馬鹿じゃねーの? ガキん時から押さえ付けて自分の頭じゃ何も考えられなくして、連中をただの人形にしちまったのはあんただろうが。それを今更どうこう言ったって、遅ぇんだよ馬鹿。魔法で助けを呼ぼうったって無駄だ。オレがあんたの筆跡を綺麗に真似をした魔導書簡を兄貴共に送って、ちゃあんと伝えてある。これから一週間は誰も尋ねてくるな、大事な客人がある、ってな」

 グレイスは、にたりと口元を広げる。

「一週間、一週間、一週間だぜ? 今は初夏だから、一週間もすればでろでろに溶けて腐った見るも無惨な死体になっちまう。皮をウジが食い破って肉が腐って関節が緩んで骨が崩れてハエが飛び回って皮がぱんぱんに膨らんで、体中の穴から汚ねぇ汁を垂れ流すようになるんだ。どうだ、素敵だろう?」

「やめてくれ、グレイス。お願いだ」

「何を? オレらの本業は、人を殺すことだ。その相手が身内じゃダメだなんていう決まりは、偉大なるご先祖様は定めていなかったはずだぜ? もしそういう決まりがあったとしても、オレは端から守る気はない。押さえ付けられると反抗したくなっちまうんだよなー、オレって。つうか、命乞いにしちゃ文句が在り来たりでつまんねぇよ。もうちょっとさー、あるだろ?」

 グレイスが明るく言うと、父親は力なく呻いた。

「…すまなかった」

「及第点に掠りもしねぇが、まあいいや。気は済んだ」

 グレイスはにやけながら、父親を見下ろした。

「本当はどぎつい呪いでも掛けてやりたいところだが、オレはあんたに触りたくもねぇ。だから、こうする」

 グレイスはブーツの側面で、父親の枯れた腕を蹴った。ぱきっと軽い音がして骨が割れ、父親は息を荒げた。
蹴られた部分の皮膚が変色し、内出血で赤黒くなる。その部分を思い切り踏み付けてから、グレイスは笑う。

「お楽しみは、これからだ」

 こんなに清々しい時間はなかった。それからグレイスは、父親が完全に絶命するまでの間、とにかく蹴り続けた。
哀れっぽい声で慈悲を乞うていたのは最初だけで、すぐに意識を失ったが、そのたびに魔法で意識を戻させた。
意識を失わないようにさせてから、蹴って蹴って蹴り続けた。これまでの恨みや、憎しみや、苛立ちを全て込めた。
ルー一族の先祖、ルーロン・ルーに対する恨みもあった。ルーロンさえいなければ、こんな父親はいなかったのに。
そう思うと尚のこと腹立たしくなって、蹴りを止められなかった。ふと気付いた頃には、父親は無惨に死んでいた。
全身の骨という骨が折れ、顔中から血や体液を垂れ流していた。顔も原型を止めておらず、人相が変わっている。
 グレイスは父親の血と体液にまみれたブーツを、厚いカーテンを引き千切った布の切れ端で入念に拭い取った。
それでも拭いきれなかったので手近にあった水差しの水を掛けて洗い落とし、汚れが目立たなくなるまで拭いた。
たっぷりと血を吸った靴底を絨毯に強く擦り付けてから、グレイスは書斎を出た。廊下にも、死体が転がっている。
先程殺したばかりの、父親の弟子達の死体だった。歩くのに邪魔なので死体を蹴りながら、グレイスは進んだ。
 屋敷を出ると、満点の夜空が頭上に広がっていた。


 ルーロン・ルー。
 その名に縛られていると気付いたのは、いつの頃だろう。気付いた頃には、その名から逃れられなくなっていた。
反発しようと、人を殺そうと、父親を殺そうと、長兄のデイビットがヴァトラス家の呪いを完結させても消えなかった。
逃れようとすればするほどに、戒めは強くなる。過去が遠のくほどにルーロン・ルーの存在は、化け物じみていく。
その恐ろしさが強調されるほどにルーの名に対しての畏怖も強まり、以前にも増して恐れられるようになった。
 面白くなかった。恐れられているのはあくまでもルー一族の先祖であるルーロンであり、グレイス本人ではない。
誰もグレイス本人を見ずに、ルーロン・ルーの末裔として認識している。灰色の瞳と黒髪も、鬱陶しいだけだった。
それが、どんなにも不愉快なことか。それを理解してくれる者は一人としておらず、焦燥感だけが腹に溜まった。
五十年前にも、魔導師協会前会長であるアルフォンス・エルブルスから、ルーロン・ルーの探索を依頼された。
ルーロンの血縁者であるグレイスなら見つけ出せるだろう、と遠回しながらも言われたので、正直腹が立った。
だが、結局見つからなかった。グレイスがレベッカと共にどれほど調査しても、手掛かり一つ見つからなかった。
本音を言えばルーロンなど見つけ出したくもなかったが、見つからないなら見つからないで腹が立ってしまった。
どこまでも虚仮にされ、どこまでもルーロンに翻弄される。何百年生きようと、それだけは変わっていなかった。
 そんなある日。十二年前の雪の日。旧王都の街の片隅で、追い詰めた犯罪者を撃ち抜いた女刑事に出会った。
彼女は狙撃の快感に酔い、目を潤ませていた。グレイスは、遠い昔に恋をした白化の少女に似た彼女を見た。
すると、彼女はこちらを向いた。快楽に浸った眼差しをグレイスを向けてきた。その瞬間、心を奪われてしまった。
グレイスを見てくれた彼女の名は、ロザリア・ウィッシュと言い、二人が恋に落ちるまで時間は掛からなかった。
 二度目の恋は叶い、ロザリアと結ばれてからの日々は穏やかで暖かく、欠けていたものが優しく埋められた。
掛け替えのない一人娘も産まれ、満ち足りた日々の中ではルーロンの存在を忘れられ、幸せでたまらなかった。
 だから、この幸せを守りたいと思った。


 事の切っ掛けは、ブリガドーンだった。
 数年前から魔力の変動は本能的に感じ取っていたが、それが明確になって姿を現したのは三年ほど前だった。
ブリガドーンの最初の出現位置は、黒竜戦争時に滅びた竜王都付近だったが、最初はほんの小さなものだった。
両腕で囲めば抱きかかえられるほどの魔導鉱石を含んだ岩石の固まりだったのだが、自発的に移動を始めた。
移動する間に魔導鉱石を含んだ岩石を魔力で引き寄せたり転送させ、合体し、生き物のように成長していった。
気付いた頃には、ブリガドーンの大きさは竜王都の直径を遥かに超えてしまい、自力で空を飛べるようになった。
大きくなるに連れてブリガドーンの魔力数値は激しく変動し、嵐を巻き起こしかねないほどに荒々しくなっていった。
放っておくのは良くないが、手を出すべきか否か。日に日に変化するブリガドーンを見ながら、思い悩んでいた。
グレイスが考えていたことはフィフィリアンヌも考えていたらしく、彼女は頻繁に灰色の城を訪れるようになった。
ブリガドーン以外の二人の話題と言えば、連合軍の動き、友人達の安否、腹の探り合いと皮肉の応酬だった。
 だが、その日はフィフィリアンヌはあまり口数が多くなかった。いつも連れてきているはずの伯爵を、置いてきた。
わざわざ空間転移魔法を使って訪問したと思えば、ちゃんと理由があったようだ。彼女は、ひどい方向音痴だ。
その代わりに伯爵の方向感覚は恐ろしく良いので、フィフィリアンヌは伯爵が傍にいなければ自分の城でも迷う。
その彼女が伯爵を置いてくるとは、大事だ。グレイスは上等のワインを傾けながらも、フィフィリアンヌを注視した。

「下らない話をしてやろう」

 フィフィリアンヌは赤ワインを半分ほど注いだワイングラスを取ると、少し口に含み、飲み下した。

「魔導師協会が事実上解散してからというもの、私は退屈でな。やることと言えば魔導師協会から持ち出した書籍の整理と資料の見直し、魔導師協会会員名簿の暗記、解読途中で放り出されてしまった古代魔法の現代訳、魔導書に印された魔法関連の歴史の真否を調べ倒しておるぐらいでな」

「それ、暇って言わないんじゃねぇの?」

 グレイスは笑ったが、フィフィリアンヌは淡々と続けた。

「まあ聞け。時間潰しにはなる。特に手を掛けているのは、魔導書に印された魔法に絡む出来事の真否だ。古来から魔導師というものは、本当に優れた者とそうでない者の差が恐ろしく激しい。優れた魔導師の名を騙って書かれた魔導書も少なくなく、世の中に出回っていた魔導書の大半は、読むに値しない悪書なのだ。悪書を最初に読んだ者はそれが真実だと認識し、疑うことなく飲み込んでしまう。そういった者達が書く文章は悪文なのだが、無知なる者達はやはりそれを真実だと認識する。その連鎖は遠い昔より続いていて、途切れることはなかった。本物によく似せた偽物の偽物は、次なる偽物を生み、いつしか本物を駆逐してしまうのだ。私はその愚劣な連鎖を断ち切るためにも魔導師協会に入ったのだが、情けないことに力が及ばなくてな。やるべきことの十分の一もやり切らぬうちに、解散させてしもうた。一生の恥だ。だが、決して無駄ではなかった。魔導師協会本部に蔵書されていた魔導書の八割は地下倉庫に封じられて手を付けられていなかったのだが、仕事の合間に読み進め、ほぼ全てを読了した。地下倉庫に押し込められていた魔導書は、近代の魔導師は興味を持たないものばかりで封じられていたのも納得が行くが、だからといって本を腐らせるのは人道に反する。本を腐らせると言うことは、その中に書き印されている文章を腐らせるのと同意義だ。だが、文章は物質ではない。紙の上に連ねられた情報は永久であり、たとえ本が朽ちようとも読者が覚えておれば文章は潰えない。だから私は、その内容を全て記憶するべく魔導書を読み潰していったのだが、ある年代を過ぎるとある分野の魔導書が一挙に減少することに気付いたのだ。帝国と王国の小競り合いが沈静化を始めた頃、そうだな、セイヴァスの戦いからおよそ五年後だ」

「セイヴァス?」

 恐ろしく懐かしい言葉に、グレイスは目を丸めた。フィフィリアンヌは頷く。

「そうだ。セイヴァスの戦いは、貴様らルー一族が帝国側のヴァトラス家、この場合はバレッティラス家と呼称した方が解りやすいが、そのバレッティラス家を滅ぼしたために始まった帝国と王国の戦争だ。セイヴァスの戦いは貴様の兄で私の城の持ち主であった男、優秀なる魔導技師、デイビット・バレットの策略によって引き起こされた戦いで、バレッティラス家を完全に滅ぼすためのものだった。奴の抜け目ない策略でバレッティラス家は全滅し、ヴァトラス家は王国側に残されるだけとなったわけだが、その辺りのことは貴様も既知だ。これ以上の説明は無用だな」

「まぁな」

 グレイスはワインを呷り、飲み干した。喉を通った酒精の熱が下がり、胃を熱したが、それ以上に胸が痛かった。
動揺の感覚にとてもよく似た、畏怖だった。これ以上フィフィリアンヌの話を聞くべきではない、と心の隅で思った。
恐れる根拠はない。だが、フィフィリアンヌにしては重い語り口と、なかなか本題に入らない回りくどさが鼻に付く。
けれど、それだけでは恐れはしない。それに、何を恐れるのだ。今更、怖いものなどこの世にあるわけがない。
口中に残る渋みが舌を刺し、一気に飲んだために喉がひりついた。グレイスは怯えを殺し、話の続きを乞うた。

「それで?」

「セイヴァスの戦いで何が変わったか、私はもう一度調べ尽くしてみた。帝国の皇族が暗殺されたり、王国の王族や上位貴族が入れ替わったりしていたが、それくらいだ。戦いの規模は小さかったため、犠牲も少なければ両国の乱れも大したことはなかった。だが、バレッティラス家は滅亡した。私は、そこから派生した出来事の記録を洗いざらい調べたのだが、その大半は貴様の血族であるルーの名を持つ者達の暗殺だった。呪術師だけでなく、血の繋がりがない妻や愛人、産まれたばかりの子供すらも分け隔てなく暗殺されていた。暗殺者の素性はほとんどの場合は隠されているが、帝国が派遣していたのは間違いないだろう。貴様の血筋を辿ったせいか、少し興味を持ってな。これまではあまり手を付けていなかったルー一族の歴史に手を付けてみたのだが、貴様の先祖であるルーロン・ルーの名が出てくるのは、あのニワトリ頭の先祖であるヴァトラ・ヴァトラスが活躍していた時代のみであった」

「そりゃ当然だろ。同年代なんだから」

「ルーロン・ルーに関する記述がある魔導書のほぼ全てはヴァトラ・ヴァトラスによるものであり、ヴァトラ・ヴァトラスの著書にはその名が必ず現れると言っても良かろう。数十ページに跨って書かれていることもあるが、一行のみという場合もあった。そこで今度は、ルーロン・ルーの著書を探し出し始めた。ヴァトラ・ヴァトラスと決別する前は高名な魔導師であったというルーロン・ルーの著書はあるにはあったのだが、書かれた年代がどうも妙だった。ヴァトラ・ヴァトラスが死してから、およそ百五十年後にようやく書き記されたのだ。しかしその内容は、ヴァトラ・ヴァトラスと肩を並べた魔導師にしては稚拙極まりなく、おどろおどろしい単語ばかりを並べただけの、恐怖小説にも劣る、魔導書と呼ぶのもおこがましいほどの悪書であった。一目見て偽物だと解ったのだが、ルーロン・ルーの名が出てくる著書はそれ以外に何も見当たらなかった。仕方ないので近代に近付きながら探っていくと、ある時期を境に、ルーロン・ルー絡みの著書が異様に増えた時があった。それは、帝国がバレッティラス家を疎ましく思い始めた時期に程近く、ドラゴン・スレイヤーなる下劣な職業を造り出す、十数年前であった。そして」

 フィフィリアンヌの赤い瞳が、グレイスの灰色の瞳を見定めた。

「貴様の父親が呪術師となり、下らん悪事を働き始めた時期と綺麗に重なるのだ。ここまで言えば想像も付こう」

「創作にしちゃ、面白くねぇな」

 心臓を鷲掴みにされたような感覚に苛まれながら、グレイスは毒突いた。フィフィリアンヌは、ワインを傾ける。

「ならば、続きを話そうか。ここから先は私の推測に過ぎないが、ルーロン・ルーとはヴァトラ・ヴァトラスの創作した架空の人物であった可能性が高いのだ。いわゆる悪役として、物語に登場するだけの男であった。魔法に溺れて邪心を燻らせるルーロン・ルーは、正しき魔導を目指すヴァトラ・ヴァトラスとの対比として使われていた登場人物であった。そうすることでヴァトラ・ヴァトラスは、魔法がいかに危険な手段であるかということと、人の心の弱さと強さを書いていた。その辺りの表現はなかなかで、物語としてもそれなりに上出来だった。だが、ヴァトラ・ヴァトラスという者は偉大すぎた。奴の創作物であったはずのルーロン・ルーはいつのまにか一人歩きを始め、ヴァトラ・ヴァトラスの目の届かない場所で蠢くようになった。紙の上にしかいなかった呪術師は、その名を模倣され、愚かな魔導師が成り済ますことも多々あった。そこでヴァトラ・ヴァトラスは、一度、物語の中でルーロン・ルーを殺している」

 フィフィリアンヌの眼差しは、グレイスの反応を観察しているようでもあった。

「だが、その物語は完結を迎えなかった。ヴァトラ・ヴァトラスが死した直後、その弟子とやらが続きを書いてしまったのだ。本来の作者の文章を真似てはいるが質も量も劣る下らん文章を書き散らし、挙げ句の果てには己の師匠をダシにしてしまった。その無茶苦茶な続編の中で、ルーロン・ルーは化け物じみた悪役にされてしまい、本来は魔力を使わぬ文学としての魔導を極めていたはずのヴァトラ・ヴァトラスは英雄じみた活躍をさせられた。二人が戦ったとされる場所は首都付近であったが、そんな痕跡はどこにもなかった。大規模な魔法戦闘が行われたのであれば、土なり海なりに魔力の痕跡が残るはずだ。しかし、何一つ見つからなかった。あったものといえば、魔導師協会本部の地下にある巨大な異空間だが、あれが作られたのはごく最近だ。異空間生成の魔法の構造も魔力の残存率も含有率も魔導鉱石製のレンガの古さも、どこをどう調べても二百年近く前に作られたものに過ぎない。解りやすく表現しよう。アルフォンス・エルブルスが魔導師協会会長に就任してからすぐに、魔導師協会本部地下に異空間が造られたのだ。すなわち、アルフォンス・エルブルス本人があの異空間を造ったとしか思えないのだ」

「アルフォンスだと?」

「忘れたわけがあるまいて。貴様は、あの愚か者に仕事を依頼されたではないか」

「そうだけど、でも、なんでフィフィリアンヌが知っているんだよ?」

「あの愚か者は私にも話を持ちかけて来たのだ。但し、私に依頼された事柄と貴様が依頼された事柄は大きく違う。貴様は地下に封じられているルーロン・ルーの探索を命じられたが、私はそのルーロン・ルーに匹敵する不死者を生み出せと命じられた。無論、すぐに叩き出したがな。ギルディオスの事例を知っておったからなのだろうが、計略にしては浅はかだ。大方、私と貴様を填める気でいたのだろう。私に魔導師協会会長の席を譲った途端に、惜しくなったらしい。だが、その計略が始まる前に奴は死した。延命魔法のために使っていた材料が、なくなってしまったからだ。それはまあどうでもよいが、ルーロン・ルーが実在するという嘘が、また一人歩きを始めている。連合軍に捕らえられた魔導師が命乞いをするために言ったそうだが、それが連合軍上層にまで伝わったらしくてな。連合軍は半信半疑らしいが、これを使わぬ手はないと思うぞ、グレイス」

 フィフィリアンヌの冷たい眼差しが、グレイスを舐める。グレイスは苦々しい事実に歯噛みしつつも、考えていた。
嘘も周到に造り上げれば、いずれ真実になる。その手段は、昔から呪術の仕事でよく使っていた方法だった。
だが、自分に降りかかると寒気がする。自分の血筋すらも嘘で、父親の権威も嘘で、戒められていたことも嘘。
冒頭が下らなければ、結末も下らない。けれど、そのどうしようもなく馬鹿馬鹿しい物語は、まだ生きているのだ。

「だが、疑問がある」

 グレイスはいつのまにか渇いていた喉をワインで潤してから、言った。

「なんで帝国は、ルーロン・ルーに目を付けたんだ? タチの悪い魔導師なら、他にもいたはずだぜ?」

「いたとも。だが、いずれも実在していたのだ。実在している魔導師であれば、その名を騙るのは正に自殺行為だ。あの頃の魔導師は腕が良かったからな、敵に回してもいいことはない。だからこそ帝国は、いるはずのない呪術師を生み出し、ないはずの因縁を生み出してバレッティラス家を追い込んだのだ。帝国の皇族共がバレッティラス家を疎み始めた原因は実に下らんもので、舞踏会か何かでバレッティラス家の若者が第三皇女と踊ることを断ったからだそうだ。他にも色々とありそうだが、今となっては闇の中だ。黒竜戦争で帝都が滅ぼされた時に、その辺りの記録文書も焼けてしまったからな。全く、ガルムの奴め。少しは歴史を尊ばぬか」

 フィフィリアンヌは、やや語気を強めた。

「私の推測を真に受けるか、笑い飛ばすかは貴様の自由だ」

「だな」

 グレイスはフィフィリアンヌの美しく整った顔から視線を外し、縦長の窓に向けた。外は明るく、晴れ渡っている。
フィフィリアンヌも、よく嘘を吐く女だ。一筋縄では行かない。だが、グレイスを担ぐとしても、利点が見当たらない。
何かしらの腹積もりがなければ、こんな話はしない。たまにグレイスが持ちかけても、受け流していたというのに。
余程のことがあるに違いない。しかも、グレイスを巻き込もうというのだから、とんでもないことをするつもりだろう。
 兄、デイビットはヴァトラス家の呪いを完結させた。だが、ルー一族の呪いは完結せず、ずるずると続いている。
終わらせる方法があるとすれば、ただ一つ。ルーロン・ルーを実在させ、派手な戦いで滅ぼしてしまうことだけだ。
そのために必要なのは、敵だ。絶大なる力を持った邪悪の化身を造り出そう。都合良く、材料は空に浮いている。

「要するに、オレを担ぎたいんだな? で、ブリガドーンで遊びたいんだな?」

 グレイスがにやつくと、フィフィリアンヌは無表情に返した。

「そう思いたいなら、そういうことにしておけ。それに、こちらもやっておきたいことがあってな」

 フィフィリアンヌは腰のベルトに付けていた革製の物入れを開けると、紫色の五角形の魔導鉱石を取り出した。

「この者に体を与えるためには、連合軍を襲わなくてはならぬのだ」

「ああ、そういえば連合軍が魔導兵器を造ったって話があったな。そいつを奪うんだな?」

「そんなところだ。私はブリガドーンに籠もり、この者と他の二名を調整してから動く。貴様はどうする?」

「レベッカちゃん、連れていってくれる?」

 グレイスが部屋の隅で控えているメイド姿の少女を指すと、フィフィリアンヌはさも意外そうに目を見開いた。

「珍しいな、貴様があの子を手放すとは」

「ブリガドーンって、魔導鉱石の固まりなんだろ? ついでに、莫大な魔力の貯蔵庫でもある。そんなもんをどうにかするのは、いくら竜族でも無理だと思うぜ。だから、石には石を、ってことでさ。でも、あんまり変な改造はするんじゃねぇぞ。レベッカちゃんもオレの大事な愛娘なんだから。それと、ルーロン・ルーを片付けるのはオレだからな。積年の恨みってのがあるんだからな!」

 グレイスがむくれると、フィフィリアンヌは興味なさそうに視線を外した。

「私がしたいのは、連合軍が製造した三体の魔導兵器の奪取と改造と、その三体を使って国内外にばらまかれた禁書を回収することだ。あまり邪魔をするな」

「ああ、出来ればしないでやるよ。出来れば、の話だが。フィフィリアンヌがブリガドーン側ってことは、オレは自動的に連合軍側になっちまうのかよ。ちょっとつまんねぇな」

「仕方あるまい。貴様と私が同じ位置に付くわけにはいかぬだろう」

「なあ、フィフィリアンヌ」

「なんだ」

 フィフィリアンヌが聞き返すと、グレイスは親しげに笑った。

「オレ、フィフィリアンヌと友達で良かったぜ」

「誰も貴様を友人などとは思っておらん。腐れ縁がいいところだ」

「えー、つれねぇなぁー」

「鬱陶しい」

 フィフィリアンヌはグレイスを軽くあしらうと、ワインをまた飲み始めた。グレイスも、自分のワインの続きを飲んだ。
彼女の口から話されたことを鵜呑みには出来ないが、騙すのにも騙されるのにも慣れているので関係なかった。
ルーロン・ルーをこの手で滅ぼせるのであれば、どうだっていいのだ。嬉しくて、楽しくて、笑いが止まらなかった。
それをフィフィリアンヌから咎められたが、収まらなかった。因縁を終わらせられることほど、素晴らしいことはない。
 それから、グレイスとフィフィリアンヌは分かれて行動した。付き合いは長いが、まともに共謀したのは初めてだ。
互いに勝手を知っているので、計略は滞りなく進んだ。驚くほど呼吸が合ったので、今までになくやりやすかった。
共謀関係にあることを連合軍に悟らせないために、時折双方で策を巡らせて、ぶつかり合うのもとても楽しかった。
フィフィリアンヌはレベッカを有効に活用しているらしく、ブリガドーンは以前よりもかなり安定した状態を保った。
だが、それだけではルーロン・ルーの存在を造り出せない。なのでグレイスも、連合軍の内部で忙しく動き回った。
連合軍内で密やかに語られていたルーロン・ルーの存在を強調し、いかに恐ろしいかを上位軍人達に教えた。
情報がなければ捏造し、証人がいなければでっち上げ、証拠がなければ作り出し、外堀を入念に固めていった。
大国出身の諜報部員、アレクセイ・カラシニコフとエカテリーナ・ザドルノフを部下にしたのは、半年ほど前だった。
二人の素性は明らかにされていなかったが、使い勝手が良いのと生体魔導兵器への興味から、頻繁に利用した。
二人の労力もあって、ブリガドーン撃墜作戦という名目のルーロン・ルー撃破作戦は、実施されることになった。
連合軍から送られる兵力を湯水の如く消耗して行う作戦だったので、渋っていた上位軍人もいたが丸め込んだ。
作戦さえ終われば、ルーロンとの因縁も断ち切れ、灰色の城に帰れる。城に帰れば、妻と子の楽しい日々も戻る。
 そのためなら、どんなことも出来る。





 


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