白の世界を、黒い影が歩いていく。 大量の雪に埋め尽くされ、最早道ではなくなってしまった道を、小柄な人影が躊躇うことなく進んでいた。 裾の長い闇色のコートには雪がまとわりつき、フードや肩の上にもうっすらと積もっていて、白くなっていた。 前を見て、一心に歩き続けていた。その迷いのない視線の先には、背の高い城壁に囲まれた旧王都があった。 吹き付けてくる冷え切った風が、頬を切る。フードの影に隠れている吊り上がった目元を歪め、小さく呟いた。 「ひどいな」 「だから言ったであろう。昨日のうちに、フィリオラの部屋にでも行っておけば良かったのである」 コートの内側から、独特の低い声がした。フィフィリアンヌは腰の辺りに触れ、コート越しにフラスコを押さえる。 「仕方なかろう。ファイドの奴が来るのを待っていたのだ」 「やはり、この天気では無理であったな。せめて晴れていたのならば、一日で来られたのであろうが」 多少くぐもった声で、伯爵は言った。フィフィリアンヌは、寒さで青ざめた唇を曲げる。 「いくら竜とて、この雪ではな」 柔らかな新雪を踏み締めながら、フィフィリアンヌは旧王都に向かった。だが、なかなか距離は縮まらなかった。 雪に足を取られてしまうので、かなり歩きづらかった。少しでも体勢を崩せば、転んでしまいそうになる。 自然と荒くなってくる息が、うるさかった。キースに感付かれる可能性があるので、空間転移魔法は使えない。 最後の最後まで慢心させておいて、完全に誘い込まなければならない。そして、仕留めなくてはならないのだ。 今度こそ、キースの息の根を止めなくてはいけない。やはり、過去に殺しておかなかったことが悔やまれた。 竜王都で対面した時に、なぜ手を下せなかったのだろう。母の命を盾にされていなかったら、殺せていたはずだ。 弟を殺すと同時に母を楽に出来る、と思えば良かったのだろうが、あの時にはそこまでの余裕はなかった。 キースの底知れぬ闇に、飲まれていたからだ。彼が幼かった頃に感じた危うさは、今や、底のない深淵になった。 少年であった頃に、どうにか出来ていたなら。竜王都での時に、殺せていたなら。後悔なら、いくらでも出来る。 キースを悪に走らせた原因は、一つではない。様々な要因が絡み合い、重ね合わされ、ああなってしまったのだ。 その一つ一つは小さくとも、幾重にも重なれば、膨らんで大きくなる。そして、闇の部分は更に深さを増す。 最早、救う手立てはない。だからこそ、キースを殺すべきなのだ。フィフィリアンヌは、ぐっと唇を引き締めた。 雪を踏み締める足を早め、旧王都へ急ぐ。吹き付けてくる風は強さを増して、冷えた頬に雪が当たり、痛かった。 果てのない雪原は、白い闇にも思えた。 彼は、悠長に歩いていた。 リチャードをヴァトラスの屋敷に送り込んでから、二時間程度の時間が過ぎていた。懐中時計を、ぱちりと閉じる。 そろそろ、手筈は整っているはずだ。リチャードに脅されれば、キャロルなる少女は、命令を聞かないはずがない。 かつてラミアンがそうであったように、男という生き物は、愛する者の命を盾にされると、途端に弱くなってしまう。 それまでの強固さはどこへやら、たかが女一人のために、判断を見誤ってしまうのだ。全く、愚かの極みだと思う。 だが、だからこそやりやすい。そのおかげで、ここまで来ることが出来た。目的を果たすまで、もうしばらくだ。 彼は防寒着のポケットに懐中時計をしまうと、軍帽から雪を払い、度の入っていないメガネ越しに雪空を仰ぎ見た。 柔らかな白が、降り注いでくる。鉛色の分厚い雲から、綿のようにふわふわとした儚いものが、零れ落ちてくる。 手を差し出してみると、手のひらに落ちたそれは一瞬で溶け去った。水滴の付いた手を握り締め、にたりと笑う。 あの日、視た通りの光景だ。ジョセフィーヌの体に魂を滑り込ませた瞬間に視えたものと、全く同じだった。 白く、清浄なる世界。この日が訪れるのを、望んでいた未来が手に入る瞬間を、どれほど待ち侘びていたか。 その未来を勝ち得るために、様々な策を巡らせた。人間同士を殺し合わせ、地位を高め、思うがままにしてきた。 全ては、白く清浄なる世界の主となるためだ。恐らく、あの日視た未来の光景は、この日の景色だったのだろう。 果てのない白の闇に包まれた旧王都。そこから、更なる未来が、新たなる世界が始まることを予言しているのだ。 雪が積もって歩きづらい歩道を歩き、重厚な屋敷の前に立ち止まった。門の奧の玄関には、家紋が印されている。 分厚い扉には、大きく花弁を広げたスイセンの浮き彫りが填め込んであり、そこにもうっすらと雪が付いていた。 不用心に解放されている門を抜け、丁寧に雪掻きしてある前庭を真っ直ぐ通り、正面玄関に向かっていった。 キャロルのものと思しき小さな足跡が、玄関の前の階段に残っていた。それを踏み付け、低い階段を昇る。 扉に手を掛け、開いた。スイセンの家紋が床に印されている広間は薄暗く、硬い足音が壁に反響した。 「ヴァトラス中尉!」 彼は、屋敷全体に聞こえるように声を張り上げた。白い息が、目の前を霞ませる。 「僕だ! どこにいるんだい、中尉!」 こつ、と革靴の底を床に当て、彼はスイセンの家紋の上に踏み出した。すると、足元からぶわりと風が起きた。 魔力を含んだ生温い風が、絡み付いてくる。抵抗しようと片手を挙げ、魔力を高めようとしたが、高まらない。 革靴のつま先に、金属が触れた。見下ろすとそこには、金の平たい板のペンダント、魔力充填板があった。 罠だ。そう気付いた時には、魔力の大半が外に引き摺り出されており、温かな風と化して周囲を渦巻いていた。 とにかく、魔力充填板から距離を開けなければならない。外に出ればなんとかなる。そう思い、後退ろうとした。 足を下げようとすると、背中に硬い感触があった。分厚い防寒着越しでも、それが銃口であるとすぐに解った。 「僕はここですよ、大佐」 穏やかな、声がした。振り返って見上げると、いつになく上機嫌な顔をしたリチャードがいた。 「中尉!」 僕を裏切ったな、と言おうとしたが、全身に加重が掛かった。抵抗するよりも前に、床に膝を付いてしまった。 肩どころか背中全体に訪れた相当な重量のせいで、起き上がろうとしても膝が震え、腕にも力が入らない。 素早く目を動かし、周囲を見回した。半開きになっている居間の扉の奧に、暗い赤の軍服を着た男がいた。 軍帽を深く被ったダニエルが、片手を差し出していた。その隣の軍服姿の女、フローレンスも銃を上げている。 二人の背後にいるレオナルドも拳銃を構えていたが、炎の力を高めているのか、眼差しが厳しくなっていた。 広間の右側の廊下から、複数の足音が聞こえてきた。重たい金属の軋みと、体重の軽い足音が近付いてくる。 薄暗い廊下から柔らかな光が零れ、近付いてきた。煌々と光る鉱石ランプを手にした、竜の少女が現れる。 その背後に立っている大柄な甲冑は、肩にバスタードソードを乗せていた。ぎち、と柄を握る手に力が入る。 何が、どうなっている。彼は状況を把握するべく、背後のリチャードを見据えたが、その傍らの男に目を見開いた。 いつのまにか、グレイスが立っていた。とても楽しげににやにやと笑いながら、こちらを見下ろしている。 「グレイス…」 彼が掠れた声を漏らすと、グレイスは上体を逸らして笑った。 「あー、もう最高ー! そこまで驚いてくれると、楽しくって仕方ねぇや!」 「もう、いい加減に終わりにしようや。なぁ、キース」 大柄な甲冑、ギルディオスは歩み寄ってきた。彼は身を下げようとしたが、念動力のせいで少しも動けなかった。 竜の少女、フィフィリアンヌは廊下の奥に向いた。出てきて良いぞ、と彼女が声を掛けると、足音が近付いてくる。 廊下から、三人の少年少女が出てきた。ブラッド、キャロル、フィリオラは、いずれも緊張に顔を強張らせていた。 玄関にはヴェイパーが立ち塞がっており、その傍らには、銀色のマントを揺らめかせたラミアンが立っている。 彼は戦闘態勢のヴェイパーを睨んでいたが、舌打ちした。どこにどう向かおうとも逃げ場はない、ということらしい。 薄暗い広間に膝を付いている人影を、ブラッドはじっと見据えた。視界を強めると、その者の姿が明確に見えた。 防寒着の下には、ダニエルらのものとは違う紺色の軍服を着ている。肩の線はなだらかで、胸は膨らんでいる。 紺色のスカートの下から出ている滑らかな太股に、雪道に似合わない上質の革靴、品の良い化粧の施された顔。 ほっそりとした顎、悔しげに歪んだ唇、横長のメガネ。軍帽の鍔に陰っている目元が上がり、その顔が、見えた。 ブラッドの背後で、フィリオラが息を飲んだ。 「サラ、さん…?」 その呟きが消えた頃、軍服を着た女は口元を引きつらせた。ダニエルの動揺の現れか、重みが僅かにぶれた。 ギルディオスがダニエルに目線をやると、ダニエルは手を引いた。彼は表情は固めているが、多少戸惑っている。 念動力による重圧が失せると、女はゆらりと立ち上がった。紺色の軍帽に手を掛けると、躊躇いなく外した。 軍帽の中に隠れていた前髪が額に落ち、メガネを掛けた目元に掛かる。それを、しなやかな動作で掻き上げる。 表情こそ違っていたが、確かに女はサラだった。人の良さを感じさせる目元には、苛立ちが滲んでいる。 女は、黒い瞳で彼らを睨め回した。防寒着を脱ぎ捨てて足元に落とすと、腰から拳銃を抜き、真正面に構えた。 「そういえば、僕にはそういう名前もあったね」 苛立ちを押し殺そうとしているが、その声には怒りが満ちていた。背後に向き、銀色の骸骨に叫ぶ。 「アルゼンタム! 誰でもいい、喰ってしまえ!」 「残念ながら、私はそういう名ではない。そしてこの通り、血を啜るための口も塞いでしまったのだよ」 銀色の骸骨は仮面を外すと、溶接された口を見せた。そして、また狂気の笑みを浮かべた仮面を付けた。 「黒幕ゥー。悪ィケェードナァー、もうオイラはテメェの人形じゃネェンダァーヨーゥウウウウウ」 甲高く裏返った声で言ってから、ラミアンは女を正視した。 「私の名はアルゼンタムではなくラミアン・ブラドールであり、魔導師協会会長、ステファン・ヴォルグの側近である。私が従っても良いと思った相手は、会長ただ一人だ。服従した覚えもない相手に、従う義理などない」 「馬鹿な!」 女は、手が震えるほど銃を固く握り締めた。ラミアンを強く睨み付けていたが、忌々しげに目を逸らした。 その形相は、憎悪に満ちている。普段のサラの優しげな表情から懸け離れていて、まるきり別人だった。 これが、ジョセフィーヌであり、キースなのだ。ブラッドは訳が解らなくなりそうだったが、女を凝視した。 すると、女の目線が少年を射抜いた。ブラッドが一瞬たじろぐと、女は銃口を素早く上げてブラッドに向けた。 「所詮、子供は子供か。役に立たないな。せっかく、馬鹿な父親と殺し合ってくれると思っていたのに」 女の銃口は、二人の軍人に向く。 「ファイガー大尉、アイゼン少尉。君達も馬鹿だ。なぜ、僕の手に堕ちない」 女の目が、フィフィリアンヌに向く。 「姉さんも姉さんだ。こんなことをして、会長の地位が無事でいるとでも思っているのかい?」 そして、ギルディオスを捉えた。 「だけど、一番馬鹿なのはあなただ。ずっと近くにいたのに、僕に気付かなかったんだから」 その言葉に、ギルディオスは答えなかった。肩に乗せていたバスタードソードを下ろすと、切っ先を女に向ける。 きち、と刃が傾けられ、滑らかな銀の側面に女が映る。ジョセフィーヌであり、サラであり、キースである女だ。 底冷えする広間は、沈黙した。女の発している怒りに震えた荒い呼吸の音だけが、いやに良く聞こえていた。 動揺で見開いていた目を瞬きさせ、フィリオラは女を見つめた。その中身が、サラでないことが信じられない。 「それじゃあ、サラさんは…一体…」 「サラ・ジョーンズは僕の創作物だ。体裁が良くて親切な女ってやつも、演じてみるとなかなか楽しかったよ」 女、キースは、一転して口調を穏やかにさせた。 「ああいう位置付けにいると、色々と楽でね。お前達は無条件に僕を信用してくれるし、いつもにこにこしていれば、その素性にも正体にも疑いを持たないし、何より動きやすかったよ。サラ・ジョーンズなる女は、グレイスとも軍とも無関係な存在として造り上げたからね」 キースは、メガネの奧の黒い瞳を動かした。少女の如き姉を、見据える。 「だけど、意外だな。姉さんが僕に気付かないなんて」 「気付いてはいた。サラ・ジョーンズの存在が異様であることにはな」 フィフィリアンヌは鉱石ランプを足元に置いてから、キースを睨んだ。 「世間一般から敬遠される存在であるフィリオラを始めとした人でない人を、次から次へと共同住宅の住人にするということからしてまず不自然なのだ。その上、グレイスと関わりを持ったウィリアム・サンダースまで住人にしているとなれば、きな臭いことこの上なかった。だが、確証がなかったのだ。サラ・ジョーンズの素性も洗うだけ洗ってみたが、後ろ暗い経歴も見当たらず、至極真っ当な過去があったからな。大方、それは、貴様が政府の馬鹿共をたらしこんで作らせたのだろうが、なかなか見事だった。そして、演じた演目もな。貴様の下劣な人格から懸け離れた善良な女を役に選んだこともそうだが、住人達には優しいがあくまでも他人であるという顔をして、住人達と程良く距離を置き、実に間合いの取れた付き合い方をしていた。フローレンスが感付いていないところを見ると、余程、徹底的に演じていたのだろうな。意識の表層に現れる思念を、見事に操作していたようだからな。おかげで、貴様の正体に気付くのに少々時間が掛かってしまったぞ」 「初めてだよ、姉さんに褒められるなんて。僕は嬉しいよ、姉さん」 キースは、にたりと口元を上向ける。 「何、簡単なことだよ。思念なんて、魔力の波に過ぎないものだ。魔力の扱いに長けていれば、それを操作するのは至極簡単なことだし、その表層の思念の出力を多少上げてやればいい。そうすれば、フローレンス・アイゼンの鋭敏な精神感応能力は無意識に力が強い方へ向き、僕が意識を沈めている深層にまでは、精神感応の力は届かないのさ。どんなものであっても、力の強い方へ注意が向くからね」 フローレンスは、苦々しげに舌打ちした。確かに、キースの言う通り、思念が二つあれば強い方に意識が向く。 意識すれば弱い方の思念を捉えることも出来るが、意識しなければ強い方ばかりを捉え、その奧は視えなくなる。 その上、相手が敵ではないと思っている相手であれば、長年のクセで精神感応能力をかなり押さえ込んでしまう。 キースは、そこまで計算していたのだろう。やり込められていたと解ると、フローレンスは強烈に悔しくなった。 「ああもうこんちくしょう!」 彼女の喚きを無視し、キースは背後に向いた。グレイスとその隣のリチャードを見比べ、腹立たしげに言い放った。 「それで、お前とグレイスはいつ手を組んだんだ。答えろ、ヴァトラス中尉」 「手を組んだというよりも、使われているだけですよ。僕の位置付けは、この人の手駒に過ぎませんから」 リチャードは引き金を絞る指に、僅かに力を込めた。グレイスはにやけながら、リチャードの肩に腕を乗せる。 「まぁ、そういうこった。リチャードがどうしても死にたくねぇっつーから、お前の情報と諸々を教えてやったのさ。普通さぁ、リチャードがお前の正体を知っていたら怪しすぎだろうが。それを、なんでちっとも疑わねぇかなぁ」 「戦争を起こせたことで、余程浮かれていたのだろうな。肝心な部分で気が緩んだようだな、キース」 一歩前に踏み出たラミアンは、体格に比例しない大きな手を挙げた。鋭い指先が伸ばされ、女の首筋に向かう。 「他にも、まだまだ穴はある。教えてやってくれたまえ、伯爵どの」 「はっはっはっはっはっは。良い役割を振ってくれたな、ラミアン。感謝するのである」 フィフィリアンヌの腰に提げてあるフラスコの中で、スライムが蠢いた。フィフィリアンヌはそれを外し、足元に置く。 「下らん気を回しおって」 ごろり、とフラスコは床の上で半回転した。中身を動かして回転を止めると直立し、にゅるりと内側から迫り上がる。 内側からコルク栓を押し抜き、赤紫の触手の先に乗せる。伯爵はそれをキースに向け、ふらりと振ってみせた。 「それでは、教えてやろうではないか、キースよ。貴君の組み上げた計略は、一見すれば隙のないものに見えるが、その実は様々な部分が破綻しているのである。まず、今より二十五年程度以前の異能部隊の件である。あの日、貴君はジョセフィーヌを奪い去るに当たって、ニワトリ頭率いる異能部隊を壊滅させようとしたが、ラミアンに脳天を貫かれ、失敗した。あの頃は生粋の竜族であった貴君のこと、ラミアンが監視しているなどということはとっくに気付いていたはずであろうに、なぜラミアンを殺さなかったのであるか。ニワトリ頭の話によれば、ジョセフィーヌは貴君がラミアンに殺されることを予知していた。にも関わらず、なぜそれを無視したのであろうか。余程、己の策に自信があったか、或いは目先の事に捕らわれて先が見えなかったか。まぁ、そのどちらもなのであろうが。結果として、貴君はジョセフィーヌの体を手に入れて魂の死は免れたが、それは不幸中の幸いに過ぎないのである」 伯爵は、饒舌に喋る。 「そして、大佐という地位である。何もそんな軍属にならずとも、将軍の妾にでもなれば、将軍はおろかその配下の上位軍人共も思うがままに操れたはずである。貴君には冷血オオトカゲの姉に良く似た演技力が備わっているのであるからして、多少の魔法と甘えた態度で男をたらし込むのは簡単であろうに、なぜわざわざそんな地位に付いたのか理解に苦しむのである。特務部隊もそうである。他人を使い捨てにして足蹴にしたいという、貴君らしい願望の権化であるが、弊害が多すぎるのである。人一人の強化改造には資金も時間も手間も必要であるし、そんな面倒なことをするよりも先に、呪いでも掛けてしまえばいいのである。全く持って効率が悪いのである。貴君の性根の歪みぶりを現すには打って付けではあるが、利点など一切見当たらぬのである。我が輩が思うに、キースよ、貴君は異能部隊に未練があるのであるな。異能部隊の隊長であったギルディオスに付き従った一年三ヶ月のうちに芽生えた、上官であるニワトリ頭を越えたいという思いが未だに残っていて、異能部隊を越える部隊を造れば異能部隊の隊長であるギルディオスも越えられる、とでも思ったのであろうが、それもまた失敗しているのである。貴君が作った能力強化兵なる哀れな改造人間は、異能部隊の隊員である、ダニエルとフローレンスとヴェイパーによって呆気なく倒されたのであるからな。越えるどころか、圧倒されているではないか」 独特の響きを持った低い声は、滑らかに言葉を続けた。 「ラミアンをアルゼンタムとしたこともそうである。親子同士を戦い合わせて殺し合わせる、下劣で悪趣味な復讐も、結局は失敗しているのである。吸血鬼であるラミアンの本能を剥き出しにさせて、イカれてイカした機械人形にする辺りは良いのであるが、そのラミアンの動かし方も悪かった。ただ闇雲に人間を殺させることによって、そこに隠された復讐を見せないのはまぁ良かったのであるが、ラミアンの自我を残しすぎたのである。そして、フィフィリアンヌに感付かれることを恐れるあまり、この女に近付かなさすぎた。一度でもこの女を狙わせたならば、この女が貴君の存在が裏にいることを疑うのはもう少し遅れたはずである。慎重になるあまりに避けすぎて空白を作ると、却って疑わしくなるものなのであるぞ、キースよ。戦略の鉄則である」 キースは、忌々しげにスライムを見据えている。伯爵は、更に喋る。 「他にもまだまだあるのであるが、一番の失敗はグレイスなんぞを味方に付けようとしたことである。この男は悪事を行うことと同じくらいに裏切りを好むのでな、五百年以上の付き合いになる我が輩らにも、いつこの男が裏切るのかなど予測も出来ないのである。グレイスという男は裏切りを繰り返すことが趣味なのであるからして、そんな輩を味方に付けたところで、いつか裏切られるのである。それを解った上でグレイスを使っていたのであれば酔狂であると感心するのであるが、先程の貴君の様子からしてそうではなかったようであるな。いやはや、いやはや、これほど間の抜けた男が、よく大佐になどなれたものである。これならば、ニワトリ頭が少佐でいてくれた方がマシである」 「…うるさい!」 キースが声を荒げると、伯爵はぶるぶると触手を震わせた。 「はっはっはっはっはっは。これこれ、怒るでない。怒れば怒るほど無様になるのであるぞ、キースよ」 「そうそう。悪役ってのはな、何が起きても慌てちゃいけねぇんだよ。どーんと構えてなきゃカッコ悪いぜー?」 グレイスは、うんうんと頷いている。 「それを、伯爵なんかに煽られただけで怒っちまうなんてよー。キース、お前はまだまだガキだなぁ」 「…くそぉ!」 キースは、手にしていた拳銃を床に叩き付けた。がしゃっ、と激しい金属音が響き渡り、床に傷が出来た。 足元の黒光りする拳銃を見据えながら、キースは怒りを腹に溜めていた。なぜ、ここに来て、失敗してしまう。 ラミアンも、グレイスも、リチャードも、誰も彼もが裏切っている。手の上にいたはずの者が、皆、刃向かってくる。 なぜ、思い通りにならない。地位を手にし、力を手にし、未来をも視たはずなのに、なぜこうもおかしくなるのだ。 後少しで、目的が果たせるのに。後少しでも前に進めれば、あの白く清浄な世界を、手に出来るはずなのに。 キースは、握り締めた拳を震わせていた。彼らから並べ立てられた言葉が、腹立たしくて腹立たしくて仕方ない。 何も知らないくせに、何も解っていないくせに、偉そうなことばかり言って、挙げ句にかなり馬鹿にしている。 少しは、思い知るがいい。キースは握り締めていた手を緩め、銃を構えているフローレンスに向け、力を高めた。 無様なんかじゃない。まだ負けていない。まだ終わっていない。キースは内心で繰り返しながら、目を見開いた。 「僕は」 キースは叫ぶと同時に、思念を放った。 「まだ終わっていない!」 やっ、とフローレンスは甲高い悲鳴を上げた。キースが放った思念が全身を貫き、力を経由して溢れ出した。 止めようと思っても、キースの思念の勢いは凄まじく、フローレンスの意思とは無関係に放出され続けた。 フローレンスの精神感応能力を通じて放たれたキースの強烈な思念は、広間にいる全ての者の感覚を貫いた。 圧倒的な威圧感のある竜の思念が通り抜けると、目の前の光景が変わった。薄暗い広間では、なくなっていた。 深い森に覆われた、東の竜の都。目覚めない、美しき母。辛辣な、幼い姉。そして、屈託なく笑う、幼女。 それは、悪しき竜の青年の記憶だった。 長きに渡る計略の、決着の時がやってきた。 黒き幕として蠢いていた彼が、表に現れる時でもあり、潰える時でもある。 戦いの影が忍び寄る、白き闇に包まれた旧王都の中で。 悪夢が、始まるのである。 06 3/21 |