雪は、静かに降り続いている。 キースは、息を荒げていた。外気はかなり冷え切っていたが、体の底の魔力中枢はじわりと熱くなっていた。 スイセンの家紋が描かれた床には、皆が倒れ伏している。渾身の力で放った思念に負け、気を失ったようだ。 荒げていた息を整え、メガネを直す。ただでさえ抜き出された魔力を更に消耗してしまい、頭痛がしていた。 握り締めていた手を緩め、手のひらに食い込んでいた爪を抜く。痛いほど噛み締めていた、奥歯から力を抜いた。 記憶の大半を思念として放ったため、自分自身にもその記憶が襲い掛かってきて、過去の痛みが蘇っていた。 終わったことだ、と思っても、胸の奥底からはじりじりとした焼け付くような痛みと激しい怒りが沸き上がってくる。 苛立ちに震える呼吸を整えて、気を静める。こんな時に感情を波立ててしまっては、それこそ敗北を招いてしまう。 追い詰められたと言っても、まだ策は残っている。戦況はこちらに傾いている、負けてしまうはずがないのだ。 キースは軍服を探ると、懐中時計を取り出した。共和国軍の紋章が刻まれている蓋を開いて、文字盤を出した。 「そろそろだ」 口紅を塗った唇を舐めると、懐中時計の蓋を閉じる。 「僕は、失敗なんてしていない」 懐中時計を、きつく握り締める。 「この通り、僕の計略は順調なんだ」 キースは、雪が貼り付いた窓に目をやった。そこに映る女に向けて、微笑みかける。 「なぁ。そうだろう、ジョセフィーヌ」 年齢に比べて幼い表情で、女は笑っていた。かつて、ジョセフィーヌがラミアンに見せたものと同じ笑顔だった。 「君だけは」 キースは窓に映る女に手を伸ばし、近付いていった。窓に映る女も、キースに手を伸ばしてくる。 「僕の味方でいてくれるよね」 二人の手が、冷たいガラスの上で重なり合った。指の長い白い手が、全く同じ動きで、お互いの手を慈しむ。 キースは窓の映る女に額を寄せ、合わせた。いつになく穏やかな目をして、目の前の女を見つめている。 額の冷たさで、頭痛が少し和らいでくれた。もっと彼女と触れ合っていたくて、キースは、窓に体を寄せた。 氷のように冷えた窓に手を這わせ、全く同じ動きをする彼女を愛でながら、キースは意識を深く沈ませていった。 過去の記憶に、浸るために。 幼い頃。鬱蒼とした深い森が、世界の全てだった。 東竜都の青竜城から見える景色は、いつも同じだった。季節によって色は変わるが、見えるものは変わらない。 太く逞しい木が、幾重にも重なった細長い葉を揺すっている。風が吹くたびに、ざあざあと枝がざわめいた。 赤く塗られた柱と瓦屋根の、平屋作りの広い城。物心付いた頃から、その一角で、キースは育てられていた。 幾人もの女達が、どこへ行くにも付いてきた。欲しがったものは全て与えられ、何をしても手放しに褒められた。 名前も敬称で呼ばれ、かしずかれることさえあった。訳も解らないまま、王族のような待遇の中で生きていた。 八歳を過ぎた頃。青竜族の侍女の一人が、ある少女を連れてきた。キースとは違い、髪も翼も深い青だった。 色とりどりの布を重ねた服を着ていて、裾は引きずるほど長く、板張りの床の上を苦労しながら歩いていた。 キースと少女は、青竜城の中でも一番広い広間で顔を合わせた。彼女は、部屋の奥の一段高い段の上にいた。 手には大きな扇を持っていて、繊細な金細工が施されていた。魔導鉱石の髪飾りが、深い青の髪に挿してある。 左右には四人の侍女を従えた少女は、明らかに見下した態度でキースを見ていたが、ふいっと顔を逸らした。 「なんですか、この汚い色の子供は」 今までに聞いたこともない言葉に、キースは呆気に取られた。すると、侍女の一人が少女をたしなめる。 「シャンホア様。この方は、あなた様の弟君でいらっしゃるんですよ。お父上の面影がございましょう?」 「どこにですか。こんな水の腐ったような青緑、穢らわしいったらありません」 シャンホアと呼ばれた少女は、侮蔑の眼差しでキースを一瞥した。 「顔の作りも肌の色も何もかも、あの病人の女と同じではありませんか。なぜ、こんなものが城にいますの?」 「メイ、この人は」 キースは、自分の背後に立っている侍女を見上げた。侍女が答えようとすると、シャンホアは扇を投げた。 空を切って飛んできたそれは、キースの頬を掠めて床に転げた。突然の痛みと衝撃に、キースはよろめいた。 頬に触れると皮が切れていて、血が指に付き、ずきずきと痛む。呆然とするキースに、シャンホアは言い放った。 「妾の子に名を呼ばれるなんて、考えただけでおぞましい。近付かないで」 「めかけ…?」 聞き慣れない言葉だったので、キースは繰り返した。 「卑しい生まれということよ。そんなことも知らないの、妾の子のくせに」 シャンホアは、幾重にも重なった着物の袖で口元を覆った。ああいやらしい、と眉根を歪めて身を引いている。 彼女の周囲の侍女は、その様子に何も言わなかった。キースは、自分の左右に立っている侍女を見比べた。 青い髪と青い翼を持った青竜の女達も、何も言わなかった。普段であれば、掠り傷でも大騒ぎするというのに。 頬を伝った血が、ぱたりと板張りの床に落ちた。シャンホアは袖で顔を覆ってしまい、目を合わせようともしない。 キースは皮が切れた痛みとぬるついた血の感触を感じながら、感覚として、彼女の身分が高いのだと知った。 侍女達の会話から察するに彼女が姉であることも解ったが、妾が一体何なのか、この時はまだ解らなかった。 それから数日後、侍女達から教えられた。シャンホアはウェイランの本妻の娘であることと、妾の意味を。 ウェイランは、青竜城に何人もの妻を住まわせていた。本妻に始まり、側室が三人、更に愛人が三人いた。 そのどの女にも、彼の血を受け継いだ子供がいた。キースは、実質的にウェイランの十人目の子供だった。 ウェイランに手込めにされながらもウェイランを殺したアンジェリーナは、青竜城の中では格下に扱われていた。 アンジェリーナが人間の妻であることもそうだが、青竜族の長を殺した女として、侮蔑の対象となっていた。 その子であるキースも当然蔑まれたのだが、ウェイランの子の中で唯一の男だったので、大事にされていた。 自分に向けられる周囲の態度はかなり矛盾していて、キースはそのどちらを信じるべきなのか解らなかった。 だが、東竜都を治める長の候補となると周囲の態度は敬うものとなり、あからさまに侮蔑する者は減った。 そして、未来の長となるべく日々様々な勉強に追われているうちに、キースは青竜城から滅多に出なくなった。 青竜城の者達が、会ったことのない母や顔も知らない姉に対する文句を言っていたが、訳が解らなかった。 姉と言われても、シャンホアを始めとした青竜族の娘達しか知らないし、母親が誰なのか知らなかったのだ。 父親は母親に殺されたと聞いたが、なぜ殺されたのかも解らないし、なぜ母親が会えないのかも解らなかった。 だが、母親にはいつも会いたかった。いつ会えるのか、と何度となく侍女に聞いたが、侍女は首を横に振った。 そして、長々しく奇妙な名前を持つ種違いの姉に対する評判を聞くたびに、顔も知らない姉が末恐ろしくなった。 人と竜の合いの子、毒を作る女、金にまみれた卑しい女、完全な竜でないくせに竜の世界に入り浸る異形の者。 だが、それと同時に良い評判も聞いた。金は掛かるが良い薬を作る魔導師、母親思いの娘、頭の冴えた女、とも。 これも、どちらを信じればいいのか解らなかった。だが、それを考える暇もなく、次の勉学に追い立てられた。 西方の魔法や武術なども教え込まれたが、キースはどんなことであろうともそつなくこなし、身に付けていった。 そうこうするうちに、キースは成長していった。十四歳になった頃、正式に東竜都の次の長になると決まった。 成長するに連れて地位も上がったので、都の政治に直接手を下せるようになり、権力を得てきた頃でもあった。 青竜城の中の者達を始め、東竜都の者達もキースの姿を見れば頭を下げてくるので、とても気分が良かった。 無論、シャンホアや他の姉達も同様で、幼い頃とは逆に機嫌を窺ってくるようになったのが可笑しかった。 そんなある日、フィフィリアンヌと会う機会があった。半竜半人で種違いの姉に、まともに会うのは初めてだった。 東竜都の中や青竜城の中で擦れ違うことはあったのだが、言葉はおろか目を合わせることも、一度もなかった。 だから最初は、十二歳程度の外見と若草色の翼を持っている少女は、ただの移民の竜だとしか思わなかった。 彼女が姉であると知ったのは、侍女の一人が漏らした一言だった。キース様と姉上は似ておられますねぇ、と。 だが、すぐには信じられなかった。確かに顔付きは似ていたかもしれないが、他人のそら似だと思っていた。 侍女達や役人達からは、卑しい人間の血を持つ下劣な女だ、と言われていたので、キースはそう感じていた。 竜族に関する歴史や勉学を学ぶうち、人間よりも竜族が優れていると解ったので、余計にそうだと思った。 かつて、竜族を滅亡寸前まで追いやった人間の血を持つ女が、東竜都にいることすら間違っていると考えた。 だから、別に会わなくてもいいと思っていたし、むしろ東竜都から追放してしまうべきだと思ってすらいた。 だが、未来の長たる者は色々なことを知っておかなければならないと思い、一度ぐらいは、と会うことにした。 そしてキースは、初めて、フィフィリアンヌと言葉を交わした。 青竜城の中央に造られたキースのための屋敷で、顔を合わせた。 薄暗い広間の奧、一段上に座っていた。真正面には、青竜が描かれた巨大な両開きの扉が、閉ざされていた。 その向こうから階段を昇る足音がし、板張りの床を軋ませながら、体重の軽い足音が次第に近付いてきた。 どん、と扉が押され、ゆっくりと開いていく。扉の隙間から光が差し込み、真っ直ぐキースの元までやってきた。 扉が開いていくに連れて光の幅が太くなり、広間に明暗が出来た。その逆光の中に、小柄な影が立っていた。 東竜都の者達とは違い、西方の服装である闇色のローブを着た幼さの残る少女が、無表情にキースを見ていた。 キースも、同じようにフィフィリアンヌを見据えた。真正面から向き合ってみると、顔付きはかなり似ていた。 目の吊り上がり具合も鼻筋の通り方も口元の表情も、似通っていた。他の姉達には感じない、血縁を感じた。 逆光の中でも目立っている意志の強い赤い瞳が、強かった。キースは気圧されたが、すぐに気を取り直した。 半竜半人の女に、何を戸惑うのだ。顔は似ているかもしれないが、この女の血統は自分より遥かに劣っている。 それに、自分はこんな女よりも地位は高いのだ。位の高さを示す一段上に座っている。何も、恐れることなどない。 キースは、フィフィリアンヌを見つめていた。身長は自分より小さいはずなのに、姉の雰囲気は大きかった。 「あなたが、僕の姉さんですか」 キースは、下位の者に対する物言いで言った。だが、フィフィリアンヌは動じずに素っ気なく答えた。 「そうだ」 「いきなりそんなことを言われても、どうしろって言うんですか」 この女、位の違いを知らないのか。キースは彼女の冷淡な反応に、多少なりとも戸惑ってしまった。 「僕は、あなたを姉だとは思えない」 「私もだ。貴様の父親は、下劣な男だったからな」 フィフィリアンヌは、表情も口調も変えなかった。 「血は半分しか繋がっておらんし、顔を合わせたのは初めてだからな。兄弟の実感など、あるはずもない」 父が、下劣。そんな言葉は初めて聞いた。キースは先程の戸惑いに合わせ、内心でかなり混乱してしまった。 父親であるウェイランは、この都を造り上げた素晴らしい竜族だと、この都の民達は口を揃えて言うというのに。 黒竜戦争を生き抜き、青竜族をまとめ上げ、ひいては散り散りになっていた竜族達のために都を造ったのだと。 力任せな部分はあったが、民からも好かれていた、とも。キースも、父親は素晴らしい竜族であると信じていた。 それを、この女は下劣と言い切った。キースはなるべく混乱を表情に出さないようにして、無表情を取り繕った。 こんな相手は初めてだった。キースは椅子から下りると段からも下り、悠然とした足取りで姉へと近寄っていった。 こうして近付けば、大抵の者はかしずくはずだ。だが、間近まで歩み寄っても、フィフィリアンヌは動かなかった。 それどころか、見返してきた。冷酷にも思えるほど冷たい眼差しで、キースを敬うどころか、威圧してきていた。 その態度に、キースは腹立たしくなってきた。本当なら口も聞くはずがない相手なのに、なぜ威圧されるのだ。 どうにかして、この態度を崩してやりたい。こちらが優位であり上位であることを、知らしめてやらなくては。 キースは、フィフィリアンヌを見下ろした。身長も地位も何もかも上のはずなのに、見下されるのは理不尽だ。 「姉さん。あなたは、半竜半人だと聞いていますが、それは本当なのですか?」 キースは口調を和らげ、嘲笑を含ませた。だが、フィフィリアンヌは態度を僅かばかりも変えなかった。 「ああ、本当だ」 だからどうした、とでも言うような口振りにキースは苛立ってしまったが、苛立ちを隠して僅かに笑んだ。 「そうですか」 一体、この女は何なのだろう。他の姉達は、キースと会うことがあっても、顔も上げなくなったというのに。 いくら西方の出身とはいえ、身分の違いぐらい解るはずだ。増して、偉大な父親の生前を知るなら尚のことだ。 全く持って、訳が解らなかった。かしずかれるはずの相手にかしずかれないことほど、異様なことはない。 いつのまにか、気が立っていた。なんとかしてこの女を圧倒してやろう、そんな気持ちばかりが湧いてきた。 煽り立てるような言葉を使ってみても、人を貶める言葉を放っても、フィフィリアンヌは揺らぐことはなかった。 言葉の応酬で、キースは苛立ちを増していた。感情を含めない姉の言葉がいやに腹立たしくて、声を荒げた。 それでも、フィフィリアンヌの冷淡な態度は変わらない。挙げ句、視野が狭い、などということまで言ってきた。 そんなはずはない、都の主となる自分が矮小であるはずがない。キースは、無意識に奥歯を噛み締めていた。 フィフィリアンヌは、キースに背を向けた。一括りにされた濃緑の髪が動きに合わせて広がり、音もなく落ちる。 「待て、どこへ行く」 キースは、反射的に声を上げてしまった。フィフィリアンヌは、面倒そうに横顔だけ向けてきた。 「母上の元だ。他にどこがある」 フィフィリアンヌの目は再びキースを捉えることはなく、閉ざされている扉へと向いた。 「貴様のような下らん輩に、これ以上付き合ってはおれんのだ。私は私で、忙しいのだ」 その突き放した言葉に、キースは呆然とした。侮蔑されたことはあっても、ここまでないがしろにされたことはない。 扉に向かって歩く姉の背に、手を伸ばしそうになった。だが、もう一度引き留めても、聞き入れはしないだろう。 無性に、悔しくなった。どうしてここまで言われなければならないのか、いくら考えても答えは出てこなかった。 姉は、外に出ていこうとしている。キースは追いかけたい衝動に駆られたが、その理由が解らず、困惑した。 こんな女を追ったところで、何になる。何をしても何を言っても動じないような相手に、何をしたいというのだ。 半竜半人など、竜族の汚点だ。いくら母親が竜王都の守護魔導師でも、その血の半分が人であれば無意味だ。 そんな相手に、何を望んでいる。キースは自問自答を繰り返していたが、言葉にまとまらず、出てこなかった。 すると、足音が止まった。顔を上げると、フィフィリアンヌは扉に手を掛けていて、こちらに振り返っていた。 薄い花びらのような形の良い唇が、微かに動いた。その唇の動きが止まってから、彼女の言葉が聞こえてきた。 「キース」 感情を一切混ぜずに、姉は言い捨てた。 「貴様は、愚かだ」 誰よりも愚かだ。キースの耳にその言葉が届いた頃には、フィフィリアンヌは広間を出た後で、扉が閉まっていた。 耳の奧には姉の冷たい言葉が残っていて、反響していた。払拭しようと思っても、一向に消えることはなかった。 違う、違う、そんなはずはない、そうであるわけがない。そう思おうとしても、姉の眼差しが忘れられなかった。 時間が経てば経つほど、フィフィリアンヌが言い放った様々な言葉が身に染みてきて、胸中に鈍い痛みを生んだ。 それが、自尊心を抉られたことによる痛みだと気付くまで、時間が掛かった。こんなことは、初めてだったからだ。 ここまできつい言葉を投げられるのも、否定されるのも、敬われないのも、何もかも経験したことがなかった。 他の姉達も幼い頃は皮肉ばかりを並べていたが、フィフィリアンヌの言葉は、彼女達からは懸け離れていた。 妾の子だとか汚らしい混血だとかの文句に対しての耐性はあったが、直接的な言葉に対する耐性はなかった。 なので、フィフィリアンヌの辛辣な言葉はキースの心の奥底を抉り抜いていて、深く大きな傷を造っていた。 キースは呆然としたまま、くたりと椅子に座り込んだ。力を入れようと思っても、体に力が戻ってこなかった。 苛立ちと腹立たしさが内で暴れていたが、涙が出そうなほど悔しかったが、胸の痛みでどうにも出来なかった。 誰かに慰めてもらいたかったが、呼ぶ声を出すだけの気力もなく、キースは顔を覆って項垂れ、歯を食い縛った。 涙を堪えようと思っても出てきてしまい、奥歯を強く噛んだ。牙が唇を切り、真新しい鉄の味が口に広がった。 こんなことで泣いてはいない、あれだけのことで泣くはずがない。そう思おうとしても、頬は涙で濡れていた。 キースは、声を殺した。薄暗い広間に自分の抑えた泣き声が響き、それが一層物悲しくて、涙の量は増した。 泣き止もうとしても泣き止むことは出来ず、肩を震わせ、喉を引きつらせ、嗚咽を飲み込みながら泣き伏せた。 泣きながら、なぜ泣いているのか考えた。動揺と苛立ちで回転の鈍った頭を懸命に働かせて、必死に思考した。 だが、答えは一切出てこなかった。 種違いの姉との邂逅から数日後。キースは、初めて母に会った。 東竜都を囲んでいる深い森の奧に建てられた、小さな小屋に母はいた。キースは、その小屋を見上げていた。 背後に控えているのは、青竜族の若い侍女、リンだった。可愛らしい顔立ちで、育ちの良いたおやかな女だった。 リンは、小屋の前に立ち尽くしている少年の背後に寄った。体を屈めてキースと目線を合わせ、小屋を見上げる。 「ここに母上様がいらっしゃるのですよ、キース様」 キースは、簡素な小屋を眺めた。小屋を建ててからかなり年月が過ぎているようで、屋根には苔が生えていた。 板張りの壁にもツタが這い回っていて、森と同化していた。周囲には雑草が生い茂っていたが、足跡がある。 フィフィリアンヌのものと思しき小さな足跡が、小屋の入り口付近の雑草を踏み潰していて、細い道が出来ていた。 小屋の中からは、気配はしなかった。虫の鳴き声や鳥の羽ばたき以外の音は聞こえず、空気も穏やかだった。 ここに、生きている者がいるとは思えない。キースが訝しげにしていると、リンはキースの傍に顔を寄せてきた。 「キース様の母上様であるアンジェリーナ様は、黒竜戦争で呪いを受けてしまわれたのです」 キースが黙っていると、リンは囁いてくる。 「今は眠っておられますが、お顔だけでも拝見なされませ」 「リン。なぜ、お前は僕を母上に会わせてくれるんだい。他の者達は、決して会わせようとしないのに」 キースがリンを見上げると、リンは柔らかく微笑んだ。 「いつかはお会いになられるのです。その日を、少し早めただけでございます」 キースはその答えにあまり疑問を抱かずに、フィフィリアンヌの足跡の道を辿り、小屋の扉に向かっていった。 青竜城のものとは違い、板を張っただけの扉に手を掛けた。横に引いてみたが、重たく、すぐには動かなかった。 ぐっと力を込めて引くと、ようやく動いてくれた。扉を全開にすると、手狭な小屋に日光が差し込み、中が見えた。 うっすらとした埃が舞い上がり、湿った空気が流れ出てくる。小屋の中には、物はほとんど置かれていなかった。 小さなタンスが隅にあり、その上にフィフィリアンヌの物らしい調薬の道具や本が重ねてあったが、それぐらいだ。 窓際には、ベッドがあった。季節に合わせた薄手の布団が掛けられていて、それは、人の形に膨らんでいた。 見た瞬間、キースはそれが母だと直感した。逸る気持ちを抑えながら一歩一歩足を進め、ベッドに近付いた。 緊張と歓喜で高鳴る鼓動を感じながら、ベッドを見下ろした。柔らかな日差しに照らされて、女が眠っていた。 長いツノと色鮮やかな緑髪を持った、整った顔立ちの女だった。だが、その頬は痩け、唇は乾き切っていた。 眠っているというよりも、死体のようだった。布団の胸元は上下しておらず、呼吸の音もしていなかったのだ。 彼女の顔立ちは、自分と良く似ていた。フィフィリアンヌよりもずっと似通っていて、輪郭も近いものがある。 間違いなく、アンジェリーナは自分の母親だ。キースは得も言われぬ嬉しさを感じ、無意識に口元を綻ばせた。 キースは手を伸ばして母の血の気の失せた頬に触れたが、肌の感触はかさついていて、水気はなかった。 生きているとは、思えなかった。キースが戸惑っていると、リンはぴたりと寄り添って、キースの肩を支える。 「キース様。アンジェリーナ様は、生きておられます」 「だったら、どうして目を覚まさないんだ?」 キースは、穏やかな寝顔の母を見下ろした。リンは、キースの耳元に口を寄せる。 「アンジェリーナ様は、キース様をお産みになられて、随分弱ってしまわれたのでございます。それより以前は意識もおありだったのですが、キース様をお産みになったことで、余力を使い果たしてしまわれたのです。時折お目覚めになるのですが、今は冬眠に入っておられるのです」 「それ、じゃあ」 キースは目を見開き、身動いだ。後退ろうとしたが、リンの手に阻まれた。 「僕のせいで、母さんは」 死人のような母の目は固く閉ざされていて、開きそうになかった。数日前の、姉とのやりとりが脳裏に蘇ってきた。 フィフィリアンヌが、あそこまで辛辣な理由はこれだったのだ。キースはそう確信した途端、背筋が逆立った。 そして、唐突に涙が出てきた。姉との会話の後に感じた痛みに似た苦しさが全身に湧いて、堪えられなかった。 ぼたぼたと涙を落としながら、その苦しさの意味を理解した。姉が去って、母が起きなくて、とても寂しいのだと。 フィフィリアンヌには、生まれて初めて血縁というものを感じた。アンジェリーナにも、同じものを感じていた。 そんな相手が去ってしまったから、そんな相手が目覚めないから、その原因を作ってしまったから、寂しいのだ。 これでは、嫌われてしまうはずだ。フィフィリアンヌから罵倒されて当然だ。キースは、がくがくと肩を震わせる。 「僕の、せいで」 とてつもなく、いけないことをしていたのだ。キースは、母と姉への罪悪感で、腕が痛むほど強く握り締めた。 十四年も青竜城からほとんど出ずに生きてきたが、その間、自分以外の緑竜族とは一度も会ったことはなかった。 東竜都の次の長という立場と自尊心が感情を押さえ込んでしまっていたが、本心は嬉しくてたまらなかった。 だが、自分自身もそれを認めていなかったし、感じようとしていなかった。それどころか、姉を見下してしまった。 半竜半人であるから、という考えに凝り固まっていて、フィフィリアンヌに対して必要以上に尊大な態度を取った。 キースは、今更ながらフィフィリアンヌに申し訳なくなった。握り締めていた腕から手を外し、両手で顔を覆う。 「ぼくは」 「お気を確かにお持ち下さいませ、キース様」 リンは、優しくキースを抱き締めた。細身の両腕で、震える少年を胸の中に納める。 「アンジェリーナ様がお目覚めにならないのは、キース様のせいではございません。呪いのせいでございます」 「ちがう、ちがう」 僕のせいだ、とキースが喉を裂かんばかりに声を張り上げると、リンは少年を強く抱き締める。 「ああ、キース様。なんてお可哀想なのでしょう」 キースは涙で濡れた頬から手を外し、リンを見上げた。 「僕が…?」 「ええ、お可哀想でございます。とても、とても」 リンはキースの背後で膝を付くと、キースの肩に頭を預けた。慈愛に満ちた口調で、呟いた。 「キース様は、悪くありませんのに」 キースは、彼女の腕に縋った。涙を拭うこともないまま、抱き締めてくる腕にしがみ付いて、嗚咽を押し殺した。 だが、いくら泣いても喚いても、母が目覚める気配はない。キースはますます寂しくなって、リンの腕を掴む。 一度泣いてしまうと、嫌でも実感していた。血族であると感じた彼女達から、愛して欲しくてたまらないのだと。 幼い頃から感じていた疎外感を埋めてしまいたくて、そして、血を分けた家族らしいことをしたくてならなかった。 しかし、そんなことは出来ない。自分が生まれたせいで母は目覚めることはないし、姉には嫌われているのだ。 ダメだと思えば思うほど、二人の愛情を求めてしまう。母に目覚めて欲しくなる、姉に振り向いて欲しくなってくる。 だが、それは決して叶うことのない夢だ。キースは、眠り続けるアンジェリーナを見つめ、また涙が溢れてきた。 「かあさん」 震える手を伸ばし、アンジェリーナに触れた。アンジェリーナの乾いた肌に、キースの手に付いた涙が染みる。 しゃくり上げている少年に体を押し当て、リンは目を伏せた。可愛らしさのある顔立ちに、憂いが含まれた。 「キース様。どうぞ、お気が済むまでお泣き下さい」 キースはアンジェリーナに触れていた手を外し、リンを見上げた。リンは目元にうっすらと涙を浮かべ、頷いた。 愛おしげで優しい彼女の表情に、キースは自制が緩んだ。抑えていた声を張り上げ、力一杯泣きじゃくった。 何度も何度も、アンジェリーナとフィフィリアンヌに贖罪した。やれる限りの言葉を使って、二人に謝り続けた。 その間、リンはキースの髪を撫で、頬を拭い、優しい言葉を掛け続けた。女神のように、愛に溢れた声だった。 ああ、お可哀想に。なんてお可哀想なんでしょう。リンは、そう幾度となく繰り返し、キースを抱き締めていた。 彼女はキースが落ち着くまで、傍にいた。とても温かな声と言葉で、苦しみに苛まれる少年を慈しんでいた。 その日を境に、キースは今まで以上にリンに頼るようになった。以前から気に入っていたが、更に執心した。 リンも、侍女という立場を越えない程度ではあったが、キースを思い遣るようになり、優しい言葉を掛けてくれた。 キースの寝床に女があてがわれるようになると、キースは身を差し出してきた女達ではなく、リンを呼び付けた。 寝床に招かれたリンは、恥じらいながらも了承した。キース様の寵愛を受けられて幸せでございます、と笑んだ。 いつしか、キースはリンを好いていた。甘えれば甘えた分愛してくれる彼女が、愛おしくてたまらなくなった。 彼女との身分差から決して口にすることはなかったが、いつかリンを妻にしよう、とキースは常々思っていた。 母と姉から受けられない愛情を与えてくれる彼女を手放したくなかったし、今更他の女を娶る気も起きなかった。 そのうち、キースとリンの関係が青竜城に知れ渡るようになったが、キースはそれを敢えて否定しなかった。 良い機会だ、と思い、公にした。身分が違いすぎると周囲の者達からの反発はあったが、キースは押し通した。 そして、キースは東竜都と青竜族の長となり、リンを妻とした。 06 3/23 |