それから、四十年後。キースは、未だに子に恵まれていなかった。 竜族は十年周期で妊娠期が訪れるので、リンには四回も機会があったはずなのだが、一度も子は出来なかった。 その間に、シャンホアを始めとした姉達はそれぞれで子を成しており、その中には二人ほど男の子供もいた。 このままでは、男系であるべき長の血筋が女系に取って代わられてしまう、とキースも次第に焦ってきていた。 この四十年でウェイランの残した東竜都を以前にも増して栄えさせ、竜族の血を途絶えさせないようにしてきた。 民の数も増やし、都も広げ、民達の言葉を良く聞いた政治を行い、より良い竜の世界を作ることに頑張ってきた。 少しでもフィフィリアンヌに認めてもらえれば、アンジェリーナが褒めてくれれば、という思いが心の片隅にあった。 だが、キースの子だけは、いつまでたっても出来なかった。下位の者達は、リンの体が悪いのではと囁き合った。 キースはそれを否定してきたが、さすがにこうも出来ないとなると不安になってきたので、医者を呼び付けた。 竜や魔物の体に精通している黒竜族の医者、ファイド・ドラグリクを東竜都に呼び出し、青竜城に招いたのだった。 ファイドが東竜都を訪れた日は、春先ではあったがいやに空気が冷たい日で、ちらほらと細かな雪が舞っていた。 青竜城の中央にあるキースのための屋敷で、キースはファイドと顔を合わせた。ファイドは、リンを診た後だった。 くたびれた白衣を着た、褐色の肌と黒い髪を持った中年の男は、西方の言葉で書かれた診断書をめくっていた。 ファイドは診断書をめくる手を止め、一段上に座っているキースを見上げた。キースは身を乗り出し、尋ねた。 「それで、どうなんでしょう」 「それがなぁ…」 ファイドは診断書を置くと、腕を組んだ。白衣の背から生えている黒い翼が、折り畳まれる。 「一応、彼女の体を一通り調べてみたんだが、これといって異常は見つからなかったんだよなぁ」 ファイドはあまり手入れのされていない髪をいじりながら、唸る。 「生殖機能も正常に働いているし、魔力の流れも乱れていないんだ。だから、彼女は至って普通なんだよ」 「じゃあ、どうして子が出来ないのですか」 キースは、多少やりづらそうにしているファイドを見据えた。ファイドは、太い眉をひそめた。 「言いにくいんだがね、キース。どうも、君の方に原因があるとしか思えないんだよ」 「僕に?」 キースが面食らっていると、ファイドは頷く。 「ああ、そうとしか思えないんだよ。私がここに呼び出された理由は、君の妻を調べるためだから、君自身は調べていないが、念のために調べておいた方が良いと思うんだがね」 「まさか、そんな」 ファイドの言葉がすぐには信じられず、キースは曖昧に笑った。ファイドは、キースを眺め回す。 「たまにそういうことがあるんだよ。他の部分に異常はなくとも、種だけが出来ない、というのはね」 「ですが、出るものは出ます」 キースが少し不愉快げにすると、いやいや、とファイドは首を横に振る。 「出るからと言って、中身があるとは限らないんだよ」 「しかし…」 「まぁ、そうでないということもあるかもしれないがね」 ファイドは白衣のポケットを探ると、小さな瓶を取り出してキースの前に差し出した。 「とりあえず、出すものを出して渡してくれ。きっちり調べてみれば、はっきりするだろう」 キースは瓶を受け取ったが、気は進まなかった。今の今まで、自分の方に原因があるなど考えたこともなかった。 男としての機能は正常であるし、異常などない。だが、ファイドの話の通りであったならば、由々しき事態だ。 長年男系として連ねてきた、青竜族の長の血が途絶えてしまう。他の姉達の息子に、長の立場を奪われてしまう。 キースは内心では激しく動揺していたが、無表情を作った。そんなはずはない、と何度も己に言い聞かせ続けた。 手の中の瓶を、きつく握り締めた。 それから、数ヶ月後。東竜都に、初夏が訪れていた。 主に農業で生計を立てている東竜都の民達にとって、最も忙しい季節であり、キースも彼らに手を貸して働いた。 青く茂った森に囲まれた畑で成長した様々な種類の野菜を山のように収穫し、これから訪れる長い冬に備えた。 忙しく働く農民達に比べて体を動かすことの少ないキースは、最初は追い付けなかったが、次第に慣れてきた。 農民達の態度も最初は硬かったが次第に柔らかくなってきて、人当たりの良いキースとの交流を、深めていた。 その日も、キースは畑に出向いていた。森を切り開いて耕した畑にはイモが植えてあり、それを掘るためだった。 日が昇る前に城を出たが、畑に着くと農民達は既に仕事を始めていて、イモのツルや葉が取り除かれている。 土が露わになった畑では、幼い子供から老人までの農民の一家が、黙々と土を掘り起こしてイモを収穫していた。 キースが畑の傍にやってくると、泥に汚れた服を着た少女が顔を上げた。キースに気付くと、ぱっと明るく笑った。 「長様!」 「早く出てきたつもりだったのですが、遅かったようですね」 キースが申し訳なさそうにすると、青竜族の少女はふるふると首を横に振り、細い腕にイモを抱えた。 「今日収穫する畑は、ここだけじゃないんです。だから、ちょっと急いで始めてしまったんです」 「おはようございます、長様! いやあ、いつもすいませんねぇ!」 掘り出したイモをカゴに放り込みながら、一家の主である父親が気さくに笑った。キースは、笑い返す。 「いえ、こちらこそ。あまりお役に立てなくて申し訳ありません」 「いやいや、長様のご立派な手ぇ貸して頂けるだけで結構でさあ! なあ!」 父親が家族をぐるりと見回すと、彼らは畑から顔を上げた。キースに向き直ると、膝を付いて深々と頭を下げた。 幼い娘も父親も、同じように膝を付いて頭を下げた。キースが、面を上げなさい、と言うと彼らは顔を上げた。 少女は、赤い瞳を上向けてキースを窺っていた。敬愛と親しみの込められた眼差しに、キースは微笑んでいた。 東竜都で生きる民達と触れ合うようになって、幼い頃の扱いが異様であったのだと、身に染みて解っていた。 男の子供だからと敬われて大事にされる一方で、事ある事に侮蔑されていた日々は、歪んでいたのだと。 青竜城の世界は、ウェイランのために生きてきた女達や権力に執心する役人達によって作られた世界だった。 外へ、東竜都へ出てみれば、世界はそれだけではないのだと知った。混血の竜族も、自分だけではなかった。 キースの方針で様々な色の竜族を受け入れたので、それによって、東竜都には混血の竜族の数は増えていた。 元から混血であった者や、色の違う竜同士の間に出来た子供など、複雑な色合いの竜族達が都に溢れていた。 彼らはキースのように侮蔑されることはなく、混じり合った色合いの肌に誇りを持ち、笑いながら生きている。 本来であれば、そうあるべきなのだ。生まれが生まれであったために、そうすることが出来なかったのだ。 キースは畑仕事に戻った農民達を見ていたが、背後に向いた。背の低い建物の並んだ都が、朝日を浴びている。 その奧に、一際目立つ大きな城があった。瓦屋根に赤い柱で造られた、幅も高さもある城、青竜城だった。 四十年前に邂逅して以降、フィフィリアンヌがこの城を訪れることはないが、東竜都には来ているようだった。 民達から聞いた話に寄れば、姉は東竜都にやってくるとアンジェリーナの世話をし、注文された薬を売るらしい。 フィフィリアンヌが売っているのは、金は掛かるが効き目は抜群の魔法薬で、客が途絶えたことはないそうだ。 そして、彼女はその金を元出にして東竜都にある書物を大量に買い漁ってから、西方の共和国へと戻っていく。 民達から聞くフィフィリアンヌの評判は、決して悪くない。者によっては、素晴らしい才女だと褒めそやす。 無愛想でつんけんした態度とやけに尊大な物言いが気に食わない、との声も全くないわけではなかったが。 それでも、誰も彼女が半竜半人であることを気にしているような様子はなく、フィフィリアンヌ本人を見ていた。 竜族の絶対数が激減している今、半分が人であろうとなんであろうと同族は同族である、という考えなのだろう。 そういった声を聞くたびに、キースは改めて己の了見が狭かったことを自覚し、姉へ尊敬の念を持つようになった。 今となれば、十四歳のあの日に姉から言われた、愚かだ、と言う言葉も素直に受け止めることが出来ていた。 城の中に閉じ込められて自尊心ばかりを膨れ上がらせていた少年は、誰がどう見ても、愚かでしかないのだから。 キースはイモの収穫を手伝いながら、姉へと思いを馳せた。フィフィリアンヌは、今頃どうしているのだろうか。 今の自分の姿を見てほしくて、また言葉を交わしたくて仕方ないが、都を放り出して会いに行けるはずもない。 体が成長してきたためか、以前にも増してアンジェリーナに顔付きが似通ってきたから、一層そう思っていた。 自分はこんなにも立派になった。愚かではなくなった。成長したのだと、血を分けた存在に認めてほしかった。 そして、愛してほしかった。 イモの収穫が一段落した昼頃、キースは農民達と休息を取っていた。 土に汚れた手を洗い、獲ったばかりのイモを焼いて、茶と共に食べていた。降り注いでくる日差しは、優しかった。 幼い娘やその親族の子供達は、何が楽しいのか解らないがはしゃいでいた。嬉しそうに、イモを食べている。 キースは、離れた位置に座ってその光景を眺めていた。農民の家族達は明るく笑い合い、言葉を交わしている。 澄み切った空の下に響き渡る快活な笑い声に、キースは目を細めた。傍目から見ていても、家族は良いものだ。 自分にはないものだからこそ、余計にそう思えていた。増して、これから先も、手に入ることなどないのだから。 土色の茶碗を傾けて茶を喉に流し込み、キースは息を吐いた。目線を上げ、街並みの奧にある青竜城に向けた。 長の妻となったリンは、地位が上り詰めた途端に態度を変えた。温かな愛情も慈しみも、全て消えてしまった。 湯水のように金を使って財産を浪費し、以前は同僚であった侍女達をはべらせて、自堕落な日々を過ごしている。 愛らしかった顔立ちも濃い化粧によってどぎついものとなり、彼女に近付くと甘ったるい香の匂いが鼻を突く。 考えてみれば、リンがキースをアンジェリーナに会わせたのは、彼女がキースをたらし込む策略だったのだろう。 母親に会ったことのないキースを母に会わせ、その母が目覚めない原因が自分にあると教えて、揺らがせる。 その揺らいだ部分に、母のような愛情を示すことで付け入って、まだ子供だったキースを虜にする策だったのだ。 キースは、その思惑に填ってしまったのだ。あの頃は、作り物の愛情と本物の愛情の見分けが付いていなかった。 やたらと甘く接してくるリンの愛情は、見た目も良いし心地良いが、キースにとっては本当にいいものではない。 それとは逆に辛辣で手厳しいフィフィリアンヌは、行く行くはキースのためになる、本物の愛情だったのだ。 だが、昔はそうだとは気付けなかった。柔らかく心地良い作り物の愛を示すリンに甘え、ずぶずぶと埋まった。 そして、リンは変わった。可愛らしく従順な侍女ではなく、欲望と権力にまみれた妃へと変貌してしまった。 今は、世継ぎを作らなくてはならないから辛うじて関係は保てているが、それが出来ないと知ればどうなるか。 キースは、茶碗を握り締める手に力を込めた。数ヶ月前、ファイドから言われた診断は、彼女には言えずにいた。 ファイドの推察通り、キースは種が出来ない体だった。精液を調べてみたところ、種の数は無きに等しかった。 他の部分には充分に漲っている魔力も精液だけは異様に薄く、新たな命を作り出すことは不可能だと言われた。 どうにかならないか、とファイドに詰め寄ったが、ファイドは首を横に振った。それだけは無理なんだよ、と。 医学が進めばどうにか出来るようになるかもしれないが、今の技術ではどうにもならないし、魔法も通用しない。 下手に魔法を使って命を作り出したところで、それでは人造魔物と同じなので、命を長らえることは出来ない。 それに、無理に作った肉体では生殖機能が出来るとも限らないし、出来ない事例の方が多い、と言われた。 だが、子供は欲しかった。世継ぎとしてだけでなく、自分には与えられなかった愛情を注ぎ込んでやりたかった。 しかし、種がなければ子は出来ない。このことをリンに言ったら、いや、民達に知れ渡ったらどうなるだろう。 長は、血を連ねてこそ長だ。優れた血統を次世代に繋げていくことこそ、長としてするべき最大の仕事なのだ。 けれど、それが出来ないと知れてしまったら、子を作ることが出来ないと解ったら、長としていられなくなる。 自分の子を長の地位に付けようと、虎視眈々と狙っているシャンホアらによって引き摺り落とされてしまう。 そうなれば、長の地位も財産も何もかもを失うことになり、リンが自分の元から離れてしまうことは決定的だ。 それでなくても、近頃のリンの様子は怪しいものがある。若い男を傍に従えていて、片時も離れようとしない。 リンのために造った離れにその男が向かうところを見た、という噂が青竜城を流れ、キースの耳にも入った。 幸せであったはずの日々が、壊れ始めている。種が出来ないことがばれてしまえば、完全に崩壊するだろう。 今は辛うじて隠せているが、明るみになるのは時間の問題だ。キースが足元を睨んでいると、影が掛かった。 見上げると、農民の少女が心配げにしていた。背中に生えた青い翼を下げていて、キースを覗き込んでいる。 「長様、お加減が悪いのですか? とても、怖いお顔をしてらっしゃいます」 「なんでもありませんよ。心配しないで下さい」 キースは、少女に微笑んでやった。少女は、ちょっと待ってて下さいね、と家族の元へと駆け戻っていった。 荷物を探っていたが、すぐに戻ってきた。小さな手には、薄青い薬液の満ちた瓶が握り締められている。 少女はキースの元にやってくると、その瓶を差し出した。キースは、得意げな少女と、小さな瓶を見比べる。 「これは?」 「フィフィリアンヌさんのお薬です。お腹が痛い時とかにほんの少し飲むんですけど、すぐに治るんですよ!」 にこにこしている少女に、キースは目元を緩ませた。 「ありがとう。けれど、僕は本当に大丈夫です。君の家の大事な薬を、僕が飲んでしまうわけにはいきません」 「ですけど、長様、本当にお辛そうでした」 瓶を下げた少女は、不安げに眉を下げる。キースは少女を安心させるため、優しい笑みを作った。 「少し、疲れてしまっただけですよ。朝が早かったですから」 「それじゃあ、ゆっくりお休みになられて下さい! お茶のお代わり、持ってきますね!」 少女は頭を下げると、足早に家族の元へ駆けていった。小さな翼が生えた背が遠ざかり、声も遠のいていった。 キースは空の茶碗を手の中で弄びながら、少女とのやり取りで、胸の奥に生じた熱の心地良さに浸っていた。 少女は熱い茶の入った鉄瓶を持とうとしたが、従兄弟の子供が持っていくと言い始め、言い合いになっていた。 私が行く、僕が行く、とむきになっている二人を、農民の家族達は微笑ましげに見ていて、キースもそうだった。 こういった光景を見ると、ますますこの都を良い都にしたいと思った。例え、竜族が滅亡への道を歩んでいても。 東竜都に集めた竜族達は子供を成しているが、その子供が完全なものとして生まれることは、減ってきていた。 卵から孵化しないこともあるし、場合によっては卵にならずに出てきてしまうこともあり、出生数は少なかった。 生まれても、男とも女とも付かない子であったり、短命であったり。明らかに、竜族全体の血が濃くなっている。 ただでさえ絶対数の少ない竜族だというのに、黒竜戦争でその大多数が滅んでしまい、かなり数が減った。 そんな中でも繁栄を取り戻そうと子を成すが、数が足りていないので、仕方なしに血族同士で子を成してしまう。 事実、ウェイランの側室の中の一人に、血が繋がった実の妹がいた。その子供も生まれているが、異形だった。 そんな状況だから、ウェイランは緑竜族であるアンジェリーナとの間に子を成し、正常な子供を望んだのだろう。 だが、その子供も、正常ではなかった。種を作ることが出来ない雄など、雄としての役割を果たしていない。 キースは、腹の底から沸き上がってくる怒りを持て余していたが、その怒りを向けるべき矛先が解らなかった。 自分自身なのか、滅びに向かいつつある竜族なのか、それとも、他の何かなのか。その全てなのかもしれない。 やるせなくて、悔しくて、ならなかった。 その日の夜。キースは、リンを寝床に招いた。 数日ぶりにまともに顔を合わせたリンは派手な色の着物を着ていて、動くたびに装飾品がじゃらじゃらと鳴った。 薄暗い寝床の中では、白粉を塗った顔が浮かんでいるように見え、どこか不気味だった。甘い、香の匂いがする。 リンはしどけなく座り、胡座を掻いて座っているキースの隣に寄ってきた。あまり、やる気のない顔をしていた。 油を差した皿に灯した小さな火が、ゆらゆらと揺れている。キースは、すっかり様変わりした妻を眺めていた。 リンは着物の裾のはだけを気にすることもなく、キースに体を寄せた。慣れた手つきで、キースの下を探る。 キースは彼女の細い手首を取ると、下から引き離した。リンは訝しげな目をして、キースを見上げてきた。 「どうかなさいましたの?」 「話がある」 キースは彼女の手首を離し、向き直った。リンは姿勢を正すことも裾を直すこともせず、艶のある笑みになる。 「お話なら、事をなされた後になさいませ。一刻も早く、世継ぎを生まねばならないのですから」 「そのことなんだ」 キースは言い出しづらかったが、言葉を絞り出した。リンの表情は、逆光で陰っていて良く見えない。 「以前に、僕は君の体を調べてもらった。だが、君の体は至って普通だとファイドどのは言っていたんだ」 「でしたら、なぜ子が出来ないのです? リンに教えて下さいませ、キース様」 キースは、膝の上に置いた拳を固く握る。 「僕は、種を作ることが出来ないんだ」 言い終えてから、キースは肩を落とした。だが、リンは動じることもなく、冷ややかな眼差しを向けてきていた。 袖口の広い着物の袖で口元を覆い、目を逸らした。その仕草は、幼い頃に見たシャンホアのものと良く似ていた。 ちり、とリンの付けている装飾品が鳴った。小さな火から広がった光に照らされて、金や銀がぎらついている。 鼻を突く化粧の匂いが、漂っている。はだけられた裾から覗いている滑らかな太股には、赤い痕が残っていた。 そのまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。城を囲む森の中から聞こえる虫の声が、やかましくなっていた。 「…なんてこと」 リンの押さえた呟きには、キースへの落胆が滲んでいた。袖で半分顔を隠していたが、目元の表情は見えた。 かつては慈愛に満ちていた眼差しは、蔑みに変わっていた。彼女が俯くと、深い青の長い髪が横顔を隠した。 「ああ、なんということなの」 リンは、悔しげに眉根を歪めている。 「そうだと知っていたら、こんなに手間の掛かることはしなかったのに。ああ、なんということ」 キースは怒りを抑えるため、拳を握る手に力を込めた。爪が痛いほど食い込んできて、肩は震えそうになる。 「リン。お前は何を考えていたんだ」 「決まっておりますわ。キース様の世継ぎを孕むことですわ」 リンは落胆を隠さずに、盛大にため息を吐いた。 「世継ぎさえ生めば、この都は私のものになるはずでしたのに、肝心の種がないのではどうにもなりませんわ」 「この、都を?」 キースが呟くと、リンは顔を逸らした。 「ええ。そうすれば、民からはもっと金も財産も搾り取れますでしょう? 私、もっと美しくなりたいんですの」 キースは、呆気に取られた。リンは、不愉快げに言う。 「私は、もっと美しくあるべきなのです。それなのに、キース様は民ばかり可愛がって、私のことなどお忘れになってしまわれたようですねぇ。昔は、あんなに可愛がってやりましたのに。長になられたら、興味など失せてしまわれたのですね。まぁ、私も、あなたのような世間知らずを相手にするのは疲れてしまいましたわ。事のやり方はいつも同じですし、あまりお上手ではないんですもの」 ああ、とリンはあからさまに嘆いた。 「そんなことをずっと我慢してきたというのに、それが全て無駄だったなんて。ああ、なんということなの」 ああ、とリンは再度落胆の声を出した。そこには、キースを哀れんで慈しんでくれた侍女の姿は、失われていた。 キースが立ち上がろうとすると、リンは裾を乱す勢いで身を下げた。しゃりっ、と繊細な金の装飾が小さく鳴る。 「近付かないで! もう、あなたには用はありません!」 「リン」 キースが彼女の名を呼ぶと、リンは忌々しげに顔を歪めた。 「せっかく上手く行っていたと思ったのに、どうしてこんなところで挫けてしまうの! あんなに面倒だったのに!」 リンは喚き立てる。 「この都が手に入ると思っていたからこそ、お前なんぞに抱かれてやったのに! お前のような穢れた血族の者が、青竜の長だなんておこがましいわ! 死んでしまえ!」 予想はしていたことだったが、ここまで激しいとは思っていなかった。キースは、激しい怒りで肩を震わせた。 「お前の姉も、お前の母も、お前と共に死んでしまえ!」 キースが目を上げると、リンはその視線から逃れるように顔を背けた。 「人と交わった女から生まれたお前など、竜ではないわ! ただの」 トカゲだ、とリンは汚らしげに吐き捨てていたような気がするが、その言葉が最後まで聞こえることはなかった。 手に、生温いものがまとわりついていた。鼻を突く化粧の匂いに強烈な鉄の匂いが混じり、気分が悪くなってくる。 天井まで噴き上がったものがぼたぼたと落ちて、衣も床も濡らしていく。ごとり、と板張りの床に何かが転げた。 首のない女の体の後ろに転げたそれは、白粉を塗りたくった顔が赤黒く汚れていて、表情は醜く歪んでいた。 聞こえるのは、自分の荒い呼吸だけだった。キースは指先を伝う血のむず痒さを感じながら、一度、瞬きした。 間を置いて、ようやく自分が何をしたか自覚した。右手を見下ろすと、そこだけ竜に変化していて、爪が鋭い。 爪先には千切れた布や装飾品の欠片が付いていて、手には肉と骨を断ち切った感触が、生々しく残っている。 目の前で、首のない女の体がゆらりと傾いた。倒れた死体から飛び散ってきた血で、リンを殺したのだと解った。 リンに裏切られたことよりも、母と姉を愚弄されたことの憤怒が凄まじく、全身の血が滾って竜の力が表に出る。 ばきばきと関節が鳴り、体が膨れ、翼が広がる。筋肉の張り詰めた腕が袖を破り、服が千切れ、足元に落ちる。 「キース様がご乱心なされた! 誰か、誰か!」 廊下を駆けてきたリンの従者の青年が、声を張り上げた。竜へと化していくキースは、ぎろりと目を動かした。 天井がすぐ傍にあり、ばきっ、とツノの先で破れた。足元には、首を失ったリンの死体が転げ、血を流している。 ぞわりとした。他人を殺めた恐怖ではなく圧倒的な爽快感に襲われ、キースは今までにない愉悦を感じていた。 太く長い尾を振り、従者の青年を薙ぎ払う。その拍子に壁が割れ、引き千切れた簾が飛び散り、床が壊れた。 異変に気付いてやってきた者達を、次から次へと殺していく。爪を振り、牙を突き立て、頭から噛み砕いてやる。 血の味が口に広がると、やるせなさも悔しさも憤りも怒りも何もかもが、すっきりと解消されて心が晴れ渡る。 城の屋根を突き破って、夜空を仰いだ。城の者達の血と肉を牙の間から零しながら、青緑の竜は、咆哮した。 夜空に猛りを放ちながら、キースは清々しい気持ちで一杯だった。抑圧していた全てを、滅ぼしている快感だ。 返り血を浴びて赤くなった視界の中、キースは暴れた。今まで溜め込んでいた思いを、吐き出すかのように。 姉と母に思いを込め、咆哮を繰り返した。母さん、起きて。姉さん、見て。僕は、こんなにも立派になった。 そう、幾度となく叫んでいた。 柔らかな朝日の中、キースは目覚めた。 いつになく心地良かったので、もう少し微睡んでいたかったが、体中にある痛みによって意識が明確になった。 起き上がると、翼が痛んだ。関節という関節がぎしぎしと軋み、特にきつい農作業をした翌朝のようだった。 舌の上には、鉄錆の味がする。それを飲み下してから、辺りを見回すと、焼け焦げた地面から煙が昇っていた。 黒く焼けた土が、延々と続いている。それは丁度都と同じ大きさで、周囲の鬱蒼とした森も、少し焼けていた。 燃え尽きた建物と思しきものがあり、その周辺には砕けたものが散らばっている。それだけ、異様に白かった。 ツノの名残、爪の残骸、焼けた牙。それらが白い破片の中に点在していたので、それが竜の骨であると解った。 竜の骨は、それだけではなかった。都全体を埋め尽くすように散らばっていて、すぐに数えられる数ではない。 キースは、立ち上がった。生命の息吹が一切消え失せた東竜都を見回していたが、不意に、記憶が溢れてきた。 「…そうだ」 リンを殺した。城を壊した。皆を喰った。民を焼いた。都を潰した。何もかもを、この手で、滅ぼしたのだ。 「は…」 キースは、目元から溢れてきたものに気付いた。拭っても拭っても止まることはなく、流れ落ちてくる。 「はははははははは」 口から出た笑い声が、止まらない。清々しくて、たまらない。 「ははははははははははははははは!」 なんて良い気持ちだろう。なんて楽しいんだろう。キースは、はしゃぎ回りたいほどに、気分が高揚していた。 そうだ、なんで今まで気付かなかったんだ。何もかもを壊してしまえば、滅ぼしてしまえば、それで良かったんだ。 偽物の愛情も狭い世界も腹立たしい女達も役人達もウェイランの影も。壊してしまえば、失われるものだったのだ。 これでもう、誰も母や姉を侮蔑しない。母に会いに行くことも制限されない。姉と言葉を交わすことだって出来る。 キースは、笑い転げていた。誰も生きていない焦土の都を見ながら、壊れた機械のように、笑い続けていた。 こんなに楽しいことを、なぜ今まで知らなかったのだ。竜を滅ぼしてこれなら、人を滅ぼしたらどうなるのだ。 人は、竜を滅びへと誘った。人は、竜より下なのに竜を蔑んできた。人は、竜の造った魔法を捨てようとしている。 これだけあれば、動機には充分だ。それに、人の世界に下りれば、姉に会える。また、姉と接することが出来る。 フィフィリアンヌには、愛しさと同時に憎しみが起きていた。こんなにも愛しているのに、愛してくれないからだ。 目覚めない母は愛してくれなくても仕方ないが、姉は平然と生きている。ならば、愛してくれるのが当然だろう。 だが、姉は少しも愛してくれない。だから、憎たらしい。相反する感情同士だったが、そのどちらも本物だった。 焦げ臭い匂いのする風が吹き抜ける中、晴れ渡った空を仰ぎ見たキースは、心からの笑顔を浮かべていた。 とても、気持ち良かった。 06 3/24 |