ドラゴンは眠らない




白い悪夢 後



雪は、降り止まない。


「残念だけど」

キースは、笑っている。

「僕は死なないんだ」

バスタードソードの切っ先は、真っ直ぐに女を狙っている。その刃を向けている甲冑は、肩を怒らせていた。
怒りに満ちたギルディオスが発する熱が、吹き込んでくる雪混じりの冷え切った広間を、ほんの少し温めていた。
キースが手を挙げると、兵士達の銃口は全てギルディオスに向いたが、兵士の一人は手を挙げて力を放った。
途端に、バスタードソードを持った手が捻られた。後方に曲げられた肘がぎちぎちと軋み、半身がずり下げる。
ぐっ、とギルディオスは唸り、踏ん張った。兵士の一人から放たれた念動力に押されて、女との間隔が広がる。
足に力を込めても、体は止まらない。ねじ曲げられた肘を強引に元に戻し、がっ、と剣先を床に突き立てる。
ギルディオスは、念動力を放っている兵士を見据えた。顔立ちに少年の面影が残っている、まだ若い兵士だ。
顔に表情は一切なく、顔色も血の気が失せていて、ギルディオスが真正面に立っていても表情を変えなかった。

「ピート! ピーター・ウィルソン上等兵!」

ギルディオスは、その兵士の名を叫んだ。だが彼は微動だにせず、それどころか念動力の出力を上げてきた。
辛うじて踏ん張っていた足が、浮き上がった。床に突き立てていた剣先が抜け、甲冑が宙に持ち上げられる。
抵抗するよりも先に、若い兵士は手を振った。その動きに合わせて放たれた念動力が、ギルディオスを飛ばした。
若い兵士との距離が、一気に開いた。ギルディオスは彼に手を伸ばそうとしたが、背中に強烈な衝撃が訪れた。
壁の破片が、視界の隅を飛び散る。背後の壁にヒビが入っていく音が間近に聞こえ、全身に過重が加わる。
胸の奥底の魔導鉱石にまで圧が掛かり、ギルディオスは掠れた息を漏らした。魂が、押し潰されそうになる。

「がはっ」

すると、腕が一層深く壁にめり込んだ。その圧力で右手から力が奪われ、指が無理に開かれ、剣が滑り落ちた。
バスタードソードは床に転げそうになったが、浮き上がり、ギルディオスの胸倉へと側面をぶつけてきた。
がしゃっ、と激しい金属音が轟いた。巨大なバスタードソードは、その主の首筋にぴたりと刃を押し当てた。
ギルディオスは刃に映る己の顔を視界の端に捉えながら、キースを睨んだ。キースは、楽しげに笑っている。

「さあ、潰してしまえ!」

キースの声と同時に、ギルディオスに体に掛かる重圧は更に増した。壁に走ったヒビが、一気に大きくなる。
ギルディオスの胸装甲の上に載っているバスタードソードが動き、ぎっ、と軋んで、甲冑の胸に傷を刻んだ。
その傷を深めるべく、バスタードソードが少しばかり浮いた。切られる、とギルディオスは内心で身構えた。
直後、若い兵士は後方へ吹き飛ばされ、壁にぶつかった。振り向くと、ダニエルが険しい顔をして立っている。

「ダニー…」

ギルディオスは、彼の名を呟いた。全身に掛かっていた念動力の重圧が消え失せ、バスタードソードも落ちた。
重みで関節が軋むのを感じながら、壁の抉れから脱した。多少体に痛みはあったが、問題はなさそうだった。
ギルディオスは足元に落ちたバスタードソードを取ると、がしゃり、と肩の上に担いでから部下に顔を向けた。
ダニエルは、手袋を填めた手を振り翳している。向かい側の壁には抉れが出来ていて、兵士が埋まっている。
その兵士から目を外したダニエルは、力も緩めた。すると、壁の抉れから黒衣の兵士がずり落ち、倒れた。

「隊長。私の独断で攻撃してしまい、申し訳ありません」

ダニエルはギルディオスに目をやってから、黒衣の兵士達を見据えた。

「お前達、自分が何をしているのか解っているのか!」

ダニエルの張り上げた声にも、黒衣の兵士達はまるで反応しない。その様子に、ダニエルは激昂する。

「隊長が解らないのか! 私も、フローレンスも、ヴェイパーも、解らないというのか!」

「解っているよ」

キースは、にやりと目を細めた。メガネのレンズに、ランプの光が撥ねる。

「だから、こいつらは苦しんでいるのさ。表層には出していないけど、自我も意思も記憶もちゃんと残っているんだ。自分がどうなっているのかも自覚しているし、かつての上官に銃を向けていることも、全て理解しているのさ。だからこそ、思念には苦しみや痛みが溢れている。ただの人形にしてしまうのは、つまらないからね。それぐらいのことはしないと、面白くないんだ、僕が」

「面白い、だと?」

ダニエルが怒りに声を震わせると、キースは上体を逸らして笑う。

「ああ、残念だね、この楽しさが解らないなんて!」

高笑いを続けるキースを、レオナルドは見据えた。じわりと高めた炎の力を放とうとすると、兵士が立ち塞がった。
キースとレオナルドの間に立った兵士は、レオナルドに銃口を向けた。レオナルドは、その背後のキースを睨む。
すると、キースは身を屈めた。床から何かを拾い上げると手首に絡め、ちゃりっ、と金色の金属板を振り回す。

「これが何だか解るかい、レオナルド・ヴァトラス。君の力なんざ、これさえあれば通用しないんだよ」

「余計なものを」

レオナルドが腹立たしげに毒づくと、キースは魔力充填板を手の中に納めた。

「こんなに便利なものは、さっさと回収しておけばいいのにねぇ」

キースはグレイスに顔を向け、愛想の良い笑みになる。

「抜かったね、グレイス。だけど意外だな。あの程度の精神衝撃波で、あなたほどの人が気を失うなんて」

「いやなに、せっかくだからてめぇの過去でも見ておこうと思っただけさ。オレは、もらえるものはもらう主義でね」

グレイスは扉に寄り掛かると、腕を組む。キースは鼻で笑ってから、メガネを直した。

「なるほど、あなたらしいね」

黒衣の兵士達は、それが合図であったかのように戦闘態勢を取った。彼らは、もう一丁の拳銃を抜き、構えた。
それは、魔導拳銃だった。魔力を整えるための魔法文字と共和国軍の紋章が銃身に彫られた、真新しい銃だ。
壁の抉れの下で倒れていた兵士も起き上がり、銃を抜く。合計二十四の銃口が、広間の中の者達を見据えた。
炎撃三種、とキースが命ずると黒衣の兵士達は一斉に魔導拳銃の弾倉を回し、炎撃三種の鉱石弾に合わせた。
フィリオラはブラッドとキャロルの前に出ようとしたが、腕を掴まれたので立ち止まり、その手の主に向いた。
見ると、フィフィリアンヌがフィリオラの腕を掴んでいる。行くな、とでも言うかのように、首を横に振っている。
でも、とフィリオラは言い返そうとしたが、フィフィリアンヌはキースに顔を向けたのでフィリオラもそれに従った。
兵士達の向けている拳銃と魔導拳銃は、冷ややかだった。その銃口の底は見えず、その中は特に闇が深かった。
キースは黒衣の兵士達を見ていたが、満足げに頷いた。そして、優雅な仕草で手を掲げ、声を張り上げた。



「総員、発砲!」



だが、銃声は轟かず、兵士達は動かなかった。思い掛けないことにキースは動転し、兵士の一人を殴り付ける。

「どうした、僕の声が聞こえないのか、僕の命令を聞け!」

殴られた兵士はよろけたが、踏み止まった。引き金に掛けられている彼の指は、凍り付いたように動かない。
キースは何度も声を上げたが、兵士達は誰一人発砲しなかった。死人のような無表情のまま、固まっている。
どうした、動けぇ、とキースの必死な叫びが広間に響く。それでも、兵士は誰一人として動くことはなかった。
兵士を殴り付けていた手を下ろし、キースは辺りを見回した。そして、広間の天井を見上げてから、叫んだ。

「そうか、お前か!」

キースは兵士を押し退けて、開け放たれた扉の前に立っている部下に向いた。

「リチャード!」

背中に吹き付けてくる雪を受けながら、リチャードは人当たりの良い笑みを浮かべ、キースに銃口を向けていた。
キースは、黒光りする銃口越しにリチャードを睨み付けていた。それに釣られる形で、全員の目線が彼に向く。
リチャードは、拳銃を下ろした。軍帽を上げて細い目を出すと、穏やかに微笑みながら、苛立つ女に言った。

「良くお解りで、大佐」

リチャードは広間の中央を通り過ぎ、廊下の前まで歩いていくと、身を固くしているキャロルの前で止まった。
キャロルは、笑っているリチャードを見上げた。その笑顔は、あの愛おしげで穏やかなものではなく、狡猾だ。
リチャードは不安げな顔をしている幼妻を見下ろしていたが、キースに向き、浮かべていた笑みを消した。

「大佐。あなたは、いずれ死にます。それは、間違いないでしょう」

「僕は死なない、死ぬわけがないんだ」

口元を引きつらせたキースに、リチャードは言う。

「では、なぜ、僕はあなたに逆らえるんでしょうね。僕はあなたに反逆を禁ずる呪いを掛けられたはずですが、この通り、あっさりとあなたに逆らうことが出来ています。その原因は考えるまでもない、大佐自身の魂が衰えているからです。呪いとは、負の感情に合わせて生じた魔力と術者の魂を糧にして作り出す魔法です。その際、術者の持っている負の感情が大きければ大きいほど呪いの威力は増大しますが、同時に魂も摩耗します。呪いは大抵の場合、被術者の意思に反しているものですから、魂もそれ相応に摩耗します。グレイスさんのように他人の感情が生じた魔力でも掻き集めて足しにしていない限り、呪いを保っていくことは、かなり難しいことなんです。増して、その呪いが長引けば長引くほど、呪いを掛けた相手が多ければ多いほど、魂が摩耗する範囲も増えていきます。魂とは魔力を根源にした意識体なので、自分の体に備わっている魔力中枢があればある程度は回復するようになっていますが、大佐はその肉体を失っています。ジョセフィーヌさんの肉体を器にしていますが、それは彼女の肉体であり、大佐の肉体ではありません。なので、魔力中枢と魂が噛み合っておらず、大佐はジョセフィーヌさんの肉体から魔力を得ることは出来ないんです。すなわち、大佐は魂の回復を行うことが出来ないんです」

リチャードは、ちらりとグレイスを窺った。グレイスは、上機嫌に笑っている。

「それが、僕がグレイスさんに教えて頂いた、あなたの弱点です。彼には、感謝してもしきれませんよ。だから僕は、大佐に抗うこともなく、従順に呪いを受け、命令を聞き、今日この日まで部下として生き延びることが出来ましたよ。話を戻しましょう。僕は、その弱まった呪いを更に弱めるべく、それなりに努力してみました。呪いとは魔力の流れに手を加える魔法であり、魔力の流れを意のままにすることで被術者を操るのですが、要はその魔力の流れを整えてしまえば元に戻れる、ということでもあるんです。僕は、仕事柄、そういうことには慣れていましてね。解呪の仕事も請け負ったこともありますし、仕事の最中に掛けられてしまった呪いを自分で解呪したこともありますので、要領は解っていました。呪いを掛けられた部分、つまり、術者に接触された場所から、魔力の流れが変えられているので、その場所を見つけて流れを元に戻してしまえばいいんです」

黒衣の兵士達を見回し、リチャードは続ける。

「それは、彼らにも同じことが言えます。僕は大佐の傍にいる間、彼ら能力強化兵の傍にもいました。彼らの調整に手を貸すことも少なくなく、その際に彼らに施された魔法を調べることも出来ましたよ。大佐は必要最低限のことしか僕に教えなかったようですが、それだけでも、能力強化兵の絡繰りを知るには充分すぎるほど充分な情報でした。僕はこれでも魔導師協会の役員ですから、侮ってもらっては困りますね」

リチャードは、キースに銃口を向ける。手袋を填めた指が、引き金を軽く絞る。

「そして、僕は大佐の呪いを弱めることに成功し、このように反逆することが出来るようになりました。もっとも、術者であるあなたが生きているので完全に解呪したわけではありませんが、それでも充分です。要は、命令の最終的な部分を聞き入れないようにするだけでいいんですから。能力強化兵に定期的に行わなければならない精神の呪縛を行わなかったり、銃に弾丸を込めないようにしたりね。あ、今は込めていますよ、弾倉の全てに」

リチャードは、威圧的に声を張り上げた。

「総員、戦闘態勢を解け!」

すると、兵士達は銃を下ろした。手も緩めて拳銃を落とし、ごとごとごとっ、と二十四挺の拳銃が床に転がった。
彼らは以前無表情ではあったが、姿勢も緩めていた。キースは目を左右に動かしていたが、リチャードを睨む。
形勢が、一気に逆転していた。ギルディオスは状況の急転に少々戸惑いながらも、フローレンスに顔を向けた。
彼女はギルディオスの視線に気付くと、顔を上げた。涙に濡れた目を瞬きさせていたが、ぐっと唇を締めた。
フローレンスは何度も呼吸を繰り返して気を静めてから、兵士達を見つめた。精神感応の力を放ち、思念を掴む。

「あらま」

「どうかしたのか、フローレンス」

ダニエルが問うと、フローレンスは広間の天井を仰いだ。

「ああ、そういうこと。なるほどねぇ。だから皆は、リチャードさんの命令を聞くようになったわけか」

「そうか。ヴァトラか」

彼女の視線の先を辿り、レオナルドが納得したように言った。うん、とフローレンスは頷き返す。

「この屋敷の中枢にいる彼のおかげなのよ、これは。ヴァトラは、魔導鉱石に納められた人造魂に、時間と知識を積み重ねて自我を作り上げた、人造魔導兵器の一種なのね。だけど、ヴァトラの自我は不完全で、知識は積み重ねてあるけど経験がないもんだから、明確な自我を作っていることが出来ない。だから、自力で言葉を発することが出来ないし、物を動かせるほどの魔力も持てないし、存在を示すことも難しいんだけど、逆を言えば、不完全だからこそどんな相手の精神とも接続出来るってわけよ。え、あ、そう、あ、そうなのね、うん」

フローレンスはヴァトラの言葉を受けて頷いたが、傍目から見ればただの独り言だった。

「彼は、相手の精神が不完全であればあるほど接続がやりやすいんだって。大抵の場合、それは子供ね。経験が少なくて発達途中の魂と魔力中枢には隙が多いし、空の部分がある。彼は、それを探り出して自分の精神波を滑り込ませて、言葉を内側から聞かせているの。精神を同調させて語り掛ける、みたいな感じでね。リチャードさんは、それを応用したわけね。そうでしょう?」

「さすがですね。一発でお見通しですか」

リチャードは感心し、フローレンスに笑んでみせる。

「フローレンスさん、あなたの言う通りです。僕は、彼を利用している。立派な魔導兵器としてね」

「でもさ、リチャードさん。ヴァトラって喋るだけしか出来ねぇんじゃねぇの?」

ブラッドが不思議そうにすると、リチャードは首を横に振る。

「いえいえ。ただ喋るだけの存在であれば、魔導兵器としての認定を受けることはありません。昨今では、魔導兵器とは魔導技術によって造り上げられた人造人間、或いは機械人形のような、異能部隊のヴェイパーやグレイスさんのレベッカのような存在を指す言葉ですが、本来の魔導兵器とは魔導技術を用いて造られた機械全般を指す言葉なんです。大まかに分類すれば、魔法によって意思を得た物、魔法によって自発的行動を取れるようになった物、魔法によって人語を解するようになった物、そして、魔法を増幅させる物、となります。一般的に使われている魔導鉱石式蒸気機関の蒸気自動車なんかは、魔法によって自発的行動が取れるようになった物と魔法によって人語を解するようになった物の複合ですね。ヴァトラは、元々、魔法によって意思を得て人語を解せるようになった、魔法増幅器なんです。僕が物心付いた頃から、彼はこの屋敷に据えられていましたが、最初は喋り掛けてくることなんてありませんでした。だけど、経験と時間を積み重ねることによって、増幅器の役割を果たすために与えられた人造魂に意思を得たわけです。といっても、所詮は魔法増幅用の人造魂ですから、意思の許容量なんてたかが知れているし、その意識にも限界があるから、彼は己の言葉を持てないんです。本来の役割とは違いますからね。本来、ヴァトラは、精神感応能力に似た能力、精神同調能力を備え付けられた魔法増幅用魔導兵器なんですよ」

リチャードは講義でもしているかのように、悠然としていた。

「精神同調能力とは、人間の魔力中枢、或いは魂に同調し、その相手と同じ感覚を得る力です。フローレンスさんのような精神感応能力に似ていますが、根本的に違うのは、受動態であることです。精神感応能力は、思考や感覚を含ませた念波、思念を相手に送ったり相手から受け取ったりすることが出来ますが、精神同調能力はそこまで器用なことは出来ません。あくまでも、相手の感覚をなぞることしか出来ないんです。どちらかと言えば、あまり役に立たない部類の力です。ですが、それはヴァトラが単体で力を使った場合の話です。彼は、魔法増幅器としての機能も備えていますから、魔法を与えてやればいくらだって応用が利くんです。例えば、今みたいにね」

「つまり貴様は、ヴァトラを媒介にして呪い封じを行ったのだな」

フィフィリアンヌが言うと、リチャードは頷いた。

「そうです。大佐が相手ですから、普通の呪い封じでは効き目がありませんから、面倒な方法を使いましたがね」

「要はあれだろ、こいつらの魔力中枢を直接いじったんだな? こいつらの精神の隙にヴァトラの力を同調させて、その同調させた部分から掻き回してキースの野郎の呪いを封じたわけだな。手間と魔力は喰うが、なかなか考えたもんだなぁ。いい腕してるぜ、リチャード」

グレイスは近くにいた兵士の腕を引っ張って近寄せ、その兵士を眺め回す。リチャードは、少し得意げにする。

「まぁ、そんなところですね。成功するかどうかは五分五分でしたけど、結構上手く行きました。さっき、大佐が精神衝撃波と一緒に思念を思い切りぶちまけてくれたおかげです。それがあったから、彼らの魔力中枢に乱れが生じて隙が大きくなってくれて、付け入ることが出来たんですよ。弱っているとはいえ、大佐の魔法の腕は相当なものですからね。それがなければ、失敗していたかもしれませんよ」

「だとさ」

ギルディオスは、キースに左手を上向けてみせた。リチャードは、嫌味なほど優しい笑みを作る。

「お礼を申し上げます、大佐。僕の作戦が成功したのは、あなたのおかげです」

「…くそぉ」

キースは苛立ちを露わにしていたが、悔しげに唸った。リチャードは軍服を探り、白墨を取り出した。

「利用されてばかりというのは、僕も面白くないですからね。これぐらいの意趣返しは、させてもらいますよ」

床に膝を付いたリチャードは、白墨を滑らせ、慣れた手つきで魔法陣を描く。二重の円を描き、文字を連ねる。
内側の円に六芒星を描き、その周囲にも魔法文字を描く。リチャードは白墨を置き、六芒星の中心に手を当てる。
冷え切っていた床に、ほのかな熱が広がっていった。リチャードの描いた魔法陣を中心に、気温が上がっていく。
魔法陣に手を付いて、リチャードは目を閉じていたが、見開いた。魔力を含んだ風が巡り、彼の長い髪が踊る。

「発動!」

リチャードの張り上げた声が、広間に残響した。間を置いてから、黒衣の兵士達の膝が折れ、彼らは崩れ落ちた。
感情の色が失せていた目に意思の光が戻ったが、すぐに瞼が下りて塞がれる。そして、一斉に兵士達は倒れた。
兵士達全員が倒れたのを確認してから、リチャードは魔法陣から手を離して立ち上がり、大きく息を吐いた。

「今のところは、これでいいでしょう。乱れに乱れた魔力中枢と身体機能を低下させて、仮死状態にしておきました。大佐の呪いと魔法と僕の仕掛けで、皆さんの魔力中枢はぐちゃぐちゃになっちゃってますから、そんな状態のままでいたらそれこそ可哀想ですからね。事が終わったら医者に診てもらう必要もありますし、それまで体を持たせておかなければなりませんから」

「なかなかの判断と処置だな、リチャード。貴様を役員に据えた私の判断は、間違いではなかったな」

フィフィリアンヌは満足げに、吊り上がった目を細めた。その言葉に、リチャードは面食らった。

「と、すると…」

「詳しい話は、事が終わった後にでもしてやるのである。今は、それどころではないのであるからな」

ごとり、とフラスコを前進させた伯爵は、コルク栓を乗せている赤紫の触手を振り上げる。

「して。次は貴君の番であるぞ」

伯爵の触手が、床に潰れている銀色の骸骨を指した。

「ラミアン」

その声に、銀色の骸骨は反応しなかった。狂気の笑顔の仮面を床に押し当て、爪先を床に食い込ませていた。
ラミアンは、魔導鉱石の瞳で仮面の目元から覗く暗がりを見つめていた。先程視た光景が、信じられなかった。
だが確かに、キースの放ったキースの記憶の中で、ジョセフィーヌはキースの魂を己の意思で受け入れていた。
なぜだ、なぜ、なぜなんだ。疑問符ばかりが思考を駆け巡り、動揺が収まらず、ラミアンはかなり混乱していた。
思考が定まらないまま、ラミアンは顔を上げた。倒れ伏した兵士達を見下ろしている女は、顔を歪めている。
愛する妻の姿形をしたキースは、悔しげだった。記憶の底には、彼女の放った凄絶な笑いがこびり付いている。
アルゼンタムであった頃にすぐ傍で見ていた、彼女の姿も蘇る。そのどれも、残酷で、残忍で、楽しげだった。
不意に、ラミアンの脳裏に、幼女の頃のジョセフィーヌが言っていた謝罪の言葉の数々が沸き起こってきた。
あの頃は、彼女が何に謝っていたのかは解らなかったが、今となっては解る。恐らく、彼女は予知していたのだ。
キースに体を奪われて悪行を重ねる自分の姿を、サラ・ジョーンズとして振る舞う未来を、視ていたのだろう。
きっと、これがその悪いことなのだ。この言葉を言った際の、苦しげなジョセフィーヌの表情も思い出された。
ジョセフィーヌも、辛いのだ。キースの記憶からして、彼女の魂は体に止まっている。そして、意識も残っている。
自分の内側から、悪行を重ねる自分とキースを見つめ続ける日々は、想像しただけでも胸苦しくなりそうだ。
彼女がキースを受け入れた真意はなんであれ、彼女が苦しんでいるのは違いない。ラミアンは、体を起こした。

「これも、罰なのだ」

ラミアンは立ち上がり、キースに向き直った。妻の形をした邪悪なる竜の青年に、銀色の大きな手を伸ばす。

「許せ、ジョー。私は、お前を救いたいのだ」

ラミアンは、廊下の出口付近に立っている息子に仮面を向けた。ブラッドは、今にも泣きそうな顔をしている。

「父ちゃん…」

「ブラッディ。私はこの通り、愚かな男だ。これしか、結論が出せなかったのだよ」

ラミアンは、内心で息子に微笑んだ。

「そんな男を父として愛してくれたことを、私はとても嬉しく思う。そして、誇りにも思う」

銀色の骸骨は姿勢を崩し、ゆらりと両手を下げた。骨に似た形状の足を曲げて、腰を落とした。

「お前が、私とジョーの息子であることを!」

銀色の骸骨の足が伸ばされ、床を強く踏み切った。強靱なバネを使って、天井付近まで、軽々と飛び上がった。
マントを揺らめかせながら、銀色の影が上を過ぎる。前傾姿勢となった銀色の骸骨は、一直線に降ってきた。
その先にいたキースは避けようとしたが、足元に倒れている黒衣の兵士に引っ掛かり、後退出来なかった。
銀色の骸骨は、軍服を着た女の目の前に着地した。アルゼンタムであった頃と同じ動きで、手を振り上げる。

「覚ァ悟シィナァアアアアア、キィスゥウウウウッ!」

鋭い爪先が、女の喉へ向かって突き出される。キースは反射的に目を閉じて、その爪から顔を逸らした。
だが、銀色の爪は、虚空を切り裂いただけだった。手は突き出されているが、指を開き、女の首筋は避けていた。
ぎち、と伸ばされていない方の手が軋んだ。ラミアンは顔を背けているキースを見据えていたが、小さく呻いた。

「…ぐ」

指をほんの少し動かしてしまえば、首の皮が裂けて血が迸り、女は死ぬ。そして、キースが死ぬのも間違いない。
刃を落としてあるとはいえ充分に鋭利な指の側面に、首が触れている。冷えてはいるが、体温が伝わってくる。
そして、頸動脈の内で脈打っている血も、感じられる。悔しげな女の表情はキースなのだが、顔は愛する妻だ。
ラミアンは、溶接して繋ぎ合わせてある歯を力一杯食い縛った。殺してしまえ、殺すべきだ、そう何度も思い直す。
今までだって、ずっとそうしてきたではないか。フィフィリアンヌに言われるままに、キースに命ぜられるままに。
それと同じことを、するだけだ。たったそれだけだ。ラミアンは自分に言い聞かせたが、手は、動かせなかった。
ラミアンは、項垂れた。女の首に当てていた指を離すと、女は詰めていた息を緩めた。眉根を歪め、喘いでいる。

「ジョー…」

ラミアンは、女に大きな手を伸ばした。女は身を下げようとしたが、それよりも早く、銀色の骸骨は腕を曲げる。
腕の中に納めた彼女の感触は、変わらない。昔に比べて少々細っていたようだったが、それでも柔らかかった。
離せ、何をする、と罵声が聞こえるが、気にならなかった。ラミアンは久々に感じる妻の温もりを、味わった。
きっちりと整えられた栗色の髪に仮面を触れさせ、抱き締める腕に力を込める。愛おしくて、たまらなかった。
だが、だからこそ、解放してやるべきだ。ラミアンは魂を締められるような苦しさを覚えながら、手を挙げる。
抱き竦めている女の肩から手を外し、その首筋に指を添えた。薄い皮に食い込ませ、頸動脈を押さえ付ける。
そして、指を動かした。



「愛しているよ、ジョセフィーヌ」





 


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