アステロイド家族




マイ・ディア・プリンセス



 膝の上には、すっかり綺麗になった少女が座っていた。
 ジェニファーは少女の肩程までの長さの黒髪を梳いてやりながら、鉛のように重たい疲労感に苛まれていた。
泣き喚く少女を引っ張り、シャワーを浴びさせ、髪と体を洗い、メディカルシステムを用いて胃と腸の洗浄も行った。
その際に簡易身体検査も行ったが、軽い衰弱を起こしていた程度であり、これといって疾患は認められなかった。
それ自体は良いことなのだが、一つ一つの作業が大仕事で、気付いた頃には五時間以上が経過してしまった。
 おかげで、ジェニファーは昼食を食べ逃していた。その上、この少女にも食事を摂らせなければならないのだ。
輸送戦艦というだけあり、保存食料の備蓄は大量にあるので、子供一人に食事を摂らせる分には問題はない。
だが、食べさせるとなるとまた別だった。一連の大仕事の中で、少女は教育を全く施されていないことが解った。
口にする言葉は全てがお兄ちゃんで、痛い、苦しい、嫌だ、と言う代わりにお兄ちゃんと叫んでは泣き出していた。
シャンプーを口に入れようとしたり、ジェニファーに噛み付いてみたり、その場で失禁したり、躾された様子もない。
本当に、ただの実験体として作られたのだろう。実験動物として生み出されたのなら、言葉も躾も必要ないからだ。
だが、こうして外界に出してしまった以上、政府に引き渡すまでの間はジェニファーが世話をしなくてはならない。
 膝に少女の重みと体温を感じつつ、ジェニファーは肩を落とした。少女がいては、コクピットには戻れそうにない。
なので、居住区に止まり、普段はほとんど使うことのないだだっ広いリビングルームで、少女の世話を焼いていた。
先程の次元震による船体の被害状況確認を終えたセバスチャンもリビングルームにいたが、立っているだけだ。

「セバスチャン、どのくらいで太陽系に着く?」

 少女の頭を撫でてやりながらジェニファーが問うと、セバスチャンが平坦に答えた。

〈この宙域よりワープドライブを行いますと、六時間十二分後に到着することが可能でございます〉

「んじゃ、さっさとかっ飛ばして」

〈了解しました〉

 セバスチャンは一礼すると、背筋を伸ばした。

〈これより、本船は太陽系方面に向けてワープドライブを開始いたします。ワープゲートに突入する際に若干の揺れが発生しますので、搭乗されたお客様はどうぞお気を付け下さい〉

 数秒後、ワープドライブの開始を示すアラートが鳴り響いた。すると、少女は驚いてびくんと痙攣した。

「おにいちゃん!」

「こういう時はそう言わないの。ビックリした、でいいの」

 ジェニファーが目をまん丸に見開いている少女を宥めると、少女はジェニファーを見上げてきた。

「びっくり?」

「そう。それでいいの。それと、なんでもかんでもお兄ちゃんって言うのは止めなさい」

「おにいちゃん…」

 今一つ意味が解らないらしく、少女は唇をひん曲げた。

「だから、そういう時はお兄ちゃんじゃなくて、なんで、って言うの」

 ジェニファーが訂正すると、少女は瞬きしてから、口を開いて一つずつ発音した。

「な、ん、で」

「それで良し」

「な、ん、で」

「上手く出来たから、褒めてやったに決まってんでしょ」

 ジェニファーが少し笑みを見せると、少女は同じように笑みを見せた。

「おにいちゃん!」

「だーから、そういう時は嬉しいって言うの。嬉しい、ってね」

「う、れ、しい?」

「そう」

「うれしい!」

 少女は先程よりも明るい笑顔を浮かべ、元気に叫んだ。

「そうそう、やれば出来るじゃない」

 ジェニファーが笑みを返すと、少女はもう一度叫んだ。

「うれしい!」

 少女はジェニファーに縋り、身を預けてきた。その重みにジェニファーは少し戸惑ったが、受け止めることにした。
今、彼女が頼れる相手はジェニファーだけなのだ。何も知らず、言葉も解らず、名前すらも名乗れないのだから。
だから、ジェニファーを信じるしかないのだろう。けれど、何も知らないから、ジェニファーを信じられるだけなのだ。
 常識や知識があれば、ジェニファーに信頼は寄せない。運び屋という点を差し引いても、信じられるわけがない。
ついこの前も、独り身の寂しさに負けてマサヨシに執着した挙げ句に愚行に及んでしまうような、愚かな女なのだ。
だから、このまま一緒にいたのでは、ジェニファーの抱えている汚らしい情念が無垢な少女を穢してしまうだろう。

「なんで?」

 すると、少女がジェニファーを覗き込んできた。

「何よ」

 ジェニファーが訝ると、少女は不思議そうに首を傾げた。

「なんで?」

「だから、何が」

「なんで?」

 少女は言いたいことと言葉が噛み合わないらしく、歯痒げに身を捩った。

〈恐らく、お嬢様はマスターのことを心配していらっしゃるのでしょう〉

 二人のやり取りを見ていたセバスチャンが解説すると、ジェニファーはますます怪訝な顔をした。

「どうして私が心配されなきゃならないのよ? 大体、なんであんたはそう思うのよ?」

〈マスターの表情パターンを読み取りましたところ、悲哀と表現すべき表情が算出されましたので〉

「なんで私が悲しまなきゃならないのよ、訳解らない」

 ジェニファーが一笑すると、セバスチャンはディープレッドのゴーグルに主の姿を映した。

〈ですが、その分析結果は事実でございます〉

「なんで?」

 少女は三度ジェニファーを見上げ、じっと見つめてきた。

「だから…」

 ジェニファーは顔をしかめたが、二人の視線には勝てなかった。きっと、先程の懸念が表情に現れたのだろう。

「私なんかに関わらせちゃいけないのよ、あんたは」

「なんで?」

 少女の問いは、今度こそ正確だった。ジェニファーは少女を抱え直し、ソファーに寄り掛かった。

「私はね、運び屋なんていうろくでもない商売をしてんのよ。運ぶものは密輸品ばかりで、たまにあんたみたいな子を運ばされるわ。この商売を選んだのは私自身だし、危ない橋を渡る分、実入りも良いから気に入ってはいるんだけど、生き延びるために悪いことばかりやってきたのよ。騙し騙されのはいつものことで、汚い金だって受け取るし、場合によっては船だって落とすし、人だって殺すわ。だから、私みたいなのに関わると、あんたみたいな真っ新な子は悪い色に染まっちゃいかねないのよ」

「なんで?」

〈どうしてそれが悲しいの、と言ったところでございましょう〉

 と、すかさずセバスチャンが少女の解説を行ったので、ジェニファーはむっとした。

「鬱陶しい真似しないでよ、今はこの子と話してんだから」

「なんで?」

 少女がジェニファーの襟元を引っ張ったので、ジェニファーは平坦に述べた。

「自分の汚さに嫌気が差しただけよ」

「なんで?」

「さあ、どうしてかしらね」

 ジェニファーは少女の手をパイロットスーツの襟元から外し、握り締めると、罪悪感に似た寂寥感に襲われた。
寂しいのはいつものことだ。だからといって、目の前に現れた純真無垢な少女をあてがい、埋めるのは誤りだ。
マサヨシの時もそうしようとしてしまい、十年間も彼に執着し、自分の醜悪さを嫌と言うほど思い知ることになった。
手近にあるものを引き寄せたところで、それが填るとは限らない。むしろ、反発し合って互いが傷付くだけなのだ。
だが、手に染み渡る他人の体温は残酷なほど優しかった。ジェニファーは少女の手を掴み、柔らかく目を細めた。

「ねえ、あんた、何か食べたいものある?」

「なんで?」

「そういう時はね、好きな食べ物を答えるのよ。ああ、でも、まだそれも知らないか」

「おにいちゃん!」

 大きく頷いた少女に、ジェニファーは笑ってしまった。

「そういう時はね、はい、って答えるの」

「はい!」

 少女は再度頷き、両手を挙げた。

「セバスチャン、食糧の在庫状況を出して。ついでに、この子に何を食べさせるべきか考えてくれる?」

 ジェニファーがセバスチャンを見やると、セバスチャンは片手を差し出してホログラフィーを投影した。

〈では、食糧庫に備蓄されている保存食料の在庫確認と同時に、お嬢様が摂取出来るメニューを検索いたします〉

「私は何が良いかな」

 ジェニファーが考え始めると、セバスチャンがすぐさま言った。

〈カレーライスの在庫はございません〉

「ちょっと、また入れといてって言ったじゃないの!」

 ジェニファーが声を上げるが、セバスチャンは動じない。

〈三ヶ月続けて同じ保存食を摂取されるというのは、さすがの私もどうかと思いまして〉

「いいじゃないの、私が好きなんだから!」

〈ハヤシライスならございますが〉

「あれ、甘ったるくて嫌いなのよ。だったら、他のカレー味のってないの?」

〈ございません。マスターが食べ尽くしましたので〉

「嘘吐いてんじゃないでしょうね?」

〈私は嘘を吐けるようには出来ておりません〉

「んじゃ、適当で良いわよ適当で」

〈曖昧なコマンドは受け付けかねます〉

「その辺は融通利かせなさいよね」

〈私をこういう性格に設定なさったのはマスターでございます〉

「仕方ないわね。とりあえず、在庫表を出して。そこから決めるから」

〈了解しました〉

 セバスチャンはもう一つのホログラフィーを投影し、在庫の保存食のリストをスクロールさせた。

「ああ、それでいいわ」

 ジェニファーが素っ気なく言うと、セバスチャンはスクロールを止め、文字列の一つを点滅させた。

〈パインサラダでございますが〉

「…何か死にそうだから却下」

〈では、次項目のパインケーキはいかがでございましょうか〉

「それもなんか嫌。その次は?」

〈ピーナッツバターサンドでございますが〉

「血糖値上げたいから、今はそれでいいわ。ついでにコーヒーもお願い。この子にはジュースでも持ってきて」

〈では、そのようにいたします。お嬢様はいかがなさいますか〉

 セバスチャンは少女の前にホログラフィーを差し出すと、衰弱している彼女が摂取出来る保存食を表示させた。
文字は使わずに画像だけを表示させたので、興味をそそったらしく、少女は物珍しげに目を動かして眺め回した。
何度も何度も視線を行き来させていたが、ある一点で止めた。セバスチャンは、その画像を拡大表示してやった。

〈ナットウマキでございますね〉

「納豆巻きぃ? なんでそんな渋いの選ぶのよ、この子は」

 ジェニファーが呆気に取られると、少女はにんまりした。

「おにいちゃん!」

「ま、いいけどね」

 ジェニファーは手を振り、セバスチャンを促した。

「なんでもいいから、さっさと運んできなさい。私もこの子もお腹空いてんだから」

「おにいちゃん!」

 少女が頷いたので、ジェニファーはその言葉を訂正してやった。

「そういう時は、お腹空いた、でいいの」

「すいた!」

「それで良し」

 ジェニファーが少女に笑みを見せると、セバスチャンは二人に頭を下げた。

〈では、少々お待ち下さいませ〉

 セバスチャンがリビングルームから出ていくと、ただでさえだだっ広いリビングルームの広さが身に染みてきた。
だから、あまりこの部屋を使わないのだ。だだっ広い部屋に一人だけでいると、それだけで寂しさは増大していく。
部屋が狭ければ、生活必需品を押し込めて空虚な空間を減らすことが出来るが、広い部屋ではそうもいかない。
食堂も、トレーニングルームも、コクピットも、居住区も、船全体も、何もかもが女一人では持て余す大きさだった。
だが、それはこれからも変わらないことだ。少女を統一政府に引き渡してしまえば、また一人きりに戻るのだから。
それでいいと決めたのは、他でもない自分だ。真っ当な道に戻してやることが、少女にとっても最良の判断なのだ。
食事を終えて一眠りすれば、太陽系に到着しているのだろう。ほんの一時、少女と自分の人生が交わっただけだ。
ただそれだけのことだ、と自分に言い聞かせながら、ジェニファーは屈託のない笑みを見せる少女を見下ろした。
 解っているはずなのに、ひどく胸が痛かった。





 


08 12/12